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第三十四環 「嫉妬の魔女とツガイを選んだ竜」

——深夜。零の自室。


訓練を終え、風呂で汗と土埃を洗い流した。


クオンとの模擬戦でできた痣が、まだ身体のあちこちに薄く残っている。だが、痛めていた肋骨は——もうほとんど痛まない。


魔界の回復魔法は優秀だ。


寝支度を済ませた零は、ベッドには入らず、窓際の椅子に腰を下ろしていた。


まるで——誰かを待つように。


三日前の夜、ルシアがこの部屋を訪れた。


明日のスケジュールを確認する——そんな口実をつけて。


あの夜から二日。


そして昨夜は——ルシアが零の前で涙を流した夜だった。


あのあと、彼女は何も言わずに部屋を去った。今朝になれば、訓練場で何事もなかったかのように振る舞っていた。


今夜も来るかどうかは分からない。


それでも零は——なぜか、来るような気がしていた。


⸻


こんこん。


深夜零時を回った頃。


静まり返った部屋に、控えめなノックの音が響いた。


零が椅子から立ち上がり、扉を開ける。


そこには——ルシアが立っていた。


今夜も私服姿だった。


黒いワンピースの上に、薄手のカーディガンを羽織っている。魔女帽子はなく、いつものツインテールも解かれていた。


真紅の髪が肩から胸元へ流れ、赤い瞳が一瞬だけ零を見上げる。


しかし、目が合った途端に逸らされた。


「……別に。明日のスケジュールに変更があるから」


三日前の夜と、まったく同じ口実だった。


だが——その手には何も持っていない。


スケジュール表も、書類もなかった。


「……入っていい?」


いつもより小さな声だった。


昨夜、自分が泣いたことを覚えているのだろう。


朝になれば何事もなかったように振る舞えても、夜になると——ルシアの仮面は少しだけ脆くなる。


零が身体をずらすと、ルシアは俯いたまま部屋へ入った。


いつもの椅子には座らない。


少し迷ったあと、ベッドの端に——零から僅かに距離を空けて腰を下ろした。


「……今日の訓練」


膝の上で両手の指を組む。


視線は床へ落としたままだ。


「属性変換。あんた、三十分で覚えたでしょ。——普通なら一週間はかかるのよ」


その声に怒りはなかった。


呆れているわけでもない。


ただ、零という存在を改めて確かめようとするような響きがあった。


「クオンとの模擬戦も見てた。朝に教えたことをすぐ実戦で使って……シエラの飛行パターンまで模倣して」


そこで言葉を切り、顔を上げる。


真紅の瞳が、零を真っ直ぐに捉えた。


「あんた……本当に何なの?」


零が答えるよりも早く、ルシアは再び視線を逸らした。


それから、しばらく言い出しにくそうに唇を動かし——ぽつりと呟いた。


「……レイラとの訓練、長かったわね」


声の調子が変わった。


ほんの僅かに——尖っている。


「中庭で、二人きりで何してたの?」


零の反応を窺うように、赤い瞳が横目で向けられる。


「——訓練にしては、時間がかかりすぎじゃない?」


唇が不満そうに尖っていた。


本人に自覚はないのだろう。


だが、その表情と声には、明らかな嫉妬が滲んでいる。


「……別に、気にしてないけど」


気にしている。


完全に。


真紅の瞳が零を見つめ、すぐに逸れる。そして数秒も経たないうちに、また戻ってくる。


先ほどから、まるで落ち着きがない。


「あんたが誰と何をしてようと、私には関係ないし」


聞かれてもいないのに、ルシアは言葉を続ける。


「ただ、スケジュールを管理する立場として、訓練内容を把握しておく必要があるから聞いてるだけよ」


言い訳が長い。


ここ数日で知ったこと。


ルシアは——嘘をつくのが下手だった。


膝の上で組まれた細い指が、きゅっと強く握り締められている。


⸻


——深夜。シエラの私室。


部屋は——散らかっていた。


いつも通り。


空の酒瓶が床に転がり、脱ぎ捨てた衣服が椅子に掛かり、読みかけの本があちこちに散乱している。


だが、今夜のシエラは、それらに目もくれなかった。


ベッドの上で——一人、膝を抱えていた。


「……何これ」


胸の奥が——熱い。


空を飛んだ。


零と一緒に。


手を繋いだ。


竜族の体温が高いから——そう言い訳した。


安全確認だと。


落ちたら危ないからだと。


嘘だ。


自分が——触れたかっただけだ。


「……っ」


背中の翼が勝手に展開された。


黒い竜翼がベッドの上で大きく広がり、尻尾が落ち着きなく揺れている。


そして、机の上の酒瓶が翼で叩き潰される。


尻尾は意思に反して動き、壁に掛かっている時計を叩き落とす。


自分の意思ではない。


本能が——暴れている。


竜族は長命だ。


千年を超える寿命を持つ。


それゆえに、竜族は子孫を残そうとする本能が薄い。繁殖への衝動など、百年に一度感じるかどうか。


それほどまでに、竜族にとって、「そう言った感情」は縁遠いものだった。


だからこそ——竜族が「番(ツガイ)」を見いだしたとき、その本能は凄まじい力で反転する。


普段が穏やかな分、一度火が点いたときの炎は——決して消えない。


「待って……待って待って。おかしい。おかしいでしょ、これ」


自分の身体を抱き締める。


翼がまだ震えている。


尻尾が自らの腰に巻きついた。


まるで何かから身を守ろうとするように。


だが——何から守ろうとしているのか、自分でも分からない。


自分自身の衝動からだろうか。


零の手の感触を思い出す。


人間の体温。


竜族よりも低いはずなのに——あの手が触れた瞬間、全身に電流が走った。


空を一緒に飛んだ。


翼を持たない人間が、自分と同じ高さまで昇ってきた。


自分の飛行パターンを見よう見まねで模倣し、必死に追いすがり——最後には、隣に並んだ。


竜族にとって、空は魂の在り処。


その空に——共に在ることのできる者。


「……番、って」


呟いた声が震えていた。


知識としては知っている。


竜族に刻まれた、番の本能。


一度認識すれば、二度と覆らない。


魂が選んだ相手。


一生に一人だけ。


そして——竜族の「一生」は、千年を超える。


それが——出会ってまだ九日目の、人間の少年?


「嘘でしょ……」


額に手を当てる。


熱い。


体温が上がっている。


竜族の体温調節機能が——完全に狂っていた。


翼が痙攣するように震え、鱗の隙間から微かな光が漏れている。


竜族が番を認識したときに起きる身体反応。


魔力が活性化し、身体が——本能に従って「準備」を始めている。


「止まれ……止まれって……」


止まらない。


零の金色の瞳を思い出す。


空で並んだとき、自分を見つめた目。


そこに怯えも、畏怖もなかった。


ただ——空を飛ぶことが楽しいという、純粋な喜びに溢れていた。


あの目に見つめられた瞬間、心臓が一度止まった。


比喩ではなく——本当に。


「……どうすんの、これ」


膝に顔を埋めた。


空色の髪がベッドの上に広がり、尻尾が力なく垂れる。


明日も——飛行訓練がある。


零と二人で。


あの空の上で。


「……無理じゃない?」


平静を装える気がしない。


隣を飛んで、手を繋いで——もう一度あの体温に触れたら、今度は離せなくなる。


竜族の本能は、一度火が点けば、理性だけでは抑えられない。


「……九日だよ。たった九日」


枕に顔を押しつける。


広がった翼が、ばさりとベッドを叩いた。


人間の寿命は——長くても、せいぜい百年。


竜族が生きる時間の、ほんの一部にすぎない。


それなのに。


魂が選んだ。


この身体が選んだ。


もう——覆せない。


零の金色の瞳が、瞼の裏に焼きついて消えない。


「……明日、どんな顔して会えばいいわけ」


尻尾が枕を強く締めつける。


竜族最強が——枕を抱えて、一人で悶えていた。


眠れない夜が、始まった。


⸻


——深夜。零の自室。


いつの間にか、スケジュールの話は消えていた。


ルシアはベッドの端に座ったまま、零の話を聞いている。


人間界の話。


学校という場所のこと。


毎朝、決まった時間に起きて、同じ建物へ通い、同じ教室で授業を受ける。


「……意味分かんない。全員に同じことさせて、何になるのよ」


ルシアは眉を顰める。


それでも、真紅の瞳は零から離れなかった。


「強い奴も弱い奴も、同じ場所に詰め込むの? 効率悪すぎでしょ」


零が笑うと、ルシアは不満そうに唇を尖らせた。


だが——すぐに、また別の質問をする。


給食とは何か。


部活とは何か。


文化祭とは、どのような催しなのか。


零が一つ答えるたびに、ルシアの瞳が僅かに輝く。


そこにあったのは——自分の知らない世界へ向けられた、純粋な好奇心だった。


「……あんた、そこでは普通の人間だったの?」


静かな問いだった。


零が頷くと——ルシアは少しだけ目を伏せる。


「そう」


そこで一度、言葉が途切れた。


「——今は、ここにいるけどね」


小さな声だった。


確認するような。


あるいは——そうであってほしいと、祈るような。


⸻


気づけば、窓の外に浮かぶ月が傾いていた。


時刻はすでに、深夜二時を過ぎている。


「——っ!」


時計を見たルシアが、跳ねるように立ち上がった。


耳が真っ赤になっている。


「な、なんでもっと早く言わないのよ! こんな時間……!」


零は何も言わなかった。


先ほどまで質問を続けていたのは、ルシア自身だ。


だが——それを指摘する気にはなれなかった。


「明日も朝六時からなんだから……っ。あんたが寝不足で訓練に集中できなくても、私のせいじゃないからね!」


扉へ向かう足が速い。


カーディガンの裾を握り締め、解かれた真紅の髪が背中で揺れている。


扉に手を掛け——その動きが止まった。


振り返らない。


だが、その肩が僅かに震えている。


「……今日の話」


背中を向けたまま。


声が小さい。


「……悪くなかった。——その、零のいた世界の話」


一拍の沈黙。


「……また、聞かせなさいよ」


最後まで振り返らないまま、ルシアは扉を開けて廊下へ出た。


ぱたん、と扉が閉じる。


その向こうから——小走りの足音が聞こえた。


赤くなった顔を隠すように、自室へ逃げ帰っていく足音。


⸻


零は一人、静かな部屋に残された。


ベッドの端には——ルシアが座っていた場所の窪みが残っている。


そこには微かに、火の花を思わせる香りが残っていた。


窓の外では、蒼い月が西へ傾いている。


夜が——ようやく終わりに近づいていた。



 

 

第三十六環 「昨日より近い距離」


——早朝。


朝六時。


零は訓練場に立っていた。


——立っているだけで精一杯だった。


四時間弱の睡眠。


瞼が重い。


「——あんた」


ルシアの声が響いた。


「寝不足?」


腕を組み、零の顔を覗き込む。


距離が近い。


「ほら見なさい。だから言ったでしょ、早く寝ろって」


言っていない。


むしろ話し込んでいたのはルシアだ。


だが指摘すれば赤くなるだけなので、零は黙っている。


「……まあいいわ。今日は昨日の属性変換の応用。複合属性——二つ以上の属性を同時に編み込む技術よ」


杖の先端に炎と氷が同時に灯った。


「普通の魔導師なら三ヶ月。私でも最初は二週間かかった。——あんたなら、まあ……」


ちらりと零を見る。


「……午前中には形にしてみせなさいよ。——できるでしょ、あんたなら」


信頼。


昨日までの「できるはず」ではなく——「できる」と確信した声。


だが、零の瞼は重い。


ルシアが小さく息を吐いた。


「……ちょっと」


手が伸びる。


——零の寝癖を、指先で直した。


「み、見苦しいのよ寝癖。——訓練に集中できないでしょ」


耳が赤い。


「さ、始めるわよ。目ぇ覚ましなさい」



◇ ◇ ◇



——昼。


複合属性魔法。


炎と氷の同時編み込み——ルシアの予想通り、零は午前中に基礎を掴んだ。


そして、昼食のテーブル。


零が食事を取っていると——


「隣、いいか」


ドン、とトレイが置かれた。


山盛りの肉。


クオンが当然のように零の隣へ座る。


「……寝不足か。顔色が悪い」


「飯を食え。体が資本だ」


そう言って、自分の皿から肉を一切れ——零の皿へ移した。


無言。


自然な動作。


「おっつー」


シエラがトレイを持って近づいてくる。


だが——いつもと何かが違う。


零を見て、一瞬だけ視線を逸らした。


座る位置を迷っている。


普段なら零の向かいに座るのに、今日は一席分空けた。


「今日の訓練どうだったっ? ルシアに絞られたっ?」


声は普通。


笑みも普通。


だが、若干声が上擦っている。


そして——尻尾が出ていた。


黒い竜尾が椅子の脚に巻きついている。


昨夜、一睡もできなかった目の下には僅かな隈。


「絞ってないわよ。適切な指導をしただけ」


ルシアが零の向かいに座った。


「……クオン。零に近すぎない? 食事くらい普通に食べさせなさいよ」


「……? 普通に食べてるが」


クオンが首を傾げた。


「あら、今日も賑やかね」


最後にレイラが現れた。


「零、今朝の訓練どうだった?」


名前呼び。


ルシアの耳が——ぴくりと動いた。


「……レイラ。いつから名前呼びになったのよ」


「え? 別にいいでしょ、呼び方くらい」


にっこりと笑うレイラ。


その時。


バキッ。


鈍い音が食堂に響いた。


シエラの尻尾が締め付けていた椅子の脚が——砕けた。


「——っ!?」


「……あんた、尻尾出てるわよ」


ルシアが冷静に指摘する。


「え——」


シエラが振り返る。


黒い尻尾が完全に露出していた。


「あー……これ、元から脆かったわ。経年劣化っていうか」


誰がどう見ても嘘だった。


「ふぅん。それ、新品だと思うけど……」


レイラが紅茶を啜る。


「あ、そういえば。ねぇ零、竜族って感情が高ぶると竜化するんだって。知ってた?」


「レイラ」


低い声。


「……っ!! 椅子、取ってくる……」


シエラは逃げるように立ち上がった。


「……シエラ、今日は変だな」


クオンが率直に言った。


新しい椅子を持って戻ってきたシエラは、今度は零の横に座った。


「……何。普通でしょ。別に何もないから」


誰も何も聞いていない。


しかも——角がまだ出ている。


珍しい。


目の前で揺れる、紺を更に深く、濃くしたような角。


零は目の前で揺れるそれに興味を持った。


そして、零はそれに手を伸ばす。


寝ぼけ眼のまま——自然に。


シエラの黒い竜角に、指先が触れた。


「角、出てるぞ」


食堂が——凍った。


シエラの全身が硬直した。


「——ッ!!」


椅子が跳ねた。


顔が——首まで真っ赤に染まっている。


「なっ……ちょ、何して……っ!」


「ちょっと!!」


ルシアまで立ち上がった。


「あんた何してんのよ!? いきなり女の子の角触るとか——っ」


「あらあら」


レイラが目を細める。


「零。竜族の角ってね、すっごく敏感なんだよ。人間で言うと——まあ、かなり際どい場所」


「レイラ、黙って!!」


シエラの悲鳴。


「……角は急所だ。触るな」


クオンが淡々と言った。


そして——


「……私の角は触っていい。丈夫だからな」


「クオン!! 何言ってんのよ!!」


食堂が騒然となった。


「……こ、今度やったら、噛むからッ!」


シエラが震えた声で呟いた。


「え、あ、悪い、知らなくて……ごめん。もう、触らない」


眠気が冷めない零がは素直に頭を下げる。


その言葉に——シエラは複雑な顔をした。


「もう、触らない」。


安堵するべき言葉。


そのはずなのに——胸の奥が、きゅっと締まった。


「……うん。分かった。いいよ、気にしてないから」


嘘だった。


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