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第三十三環 「忘れてほしい記憶」


——夜。


魔王城・中庭。


月が出ていた。


魔界の月は蒼白く、中庭の木々に青い影を落とす。


レイラが待っていた。


石造りのベンチに腰かけ、片手に紅茶のカップ。


くすんだ金髪が月光に淡く光り、長い耳が夜風に揺れている。


緑の瞳が零を捉え——唇が弧を描いた。


「来たね」


立ち上がる。


黒を基調とした衣装が夜に溶け込み、レイラの姿は輪郭だけが浮かび上がるように見えた。


「クオンに殴られ、シエラに振り回され、それでも夜にちゃんと来る。——偉いじゃん」


からかうような声、だが目は笑っていない。


観察している。


零の目を——瞳の奥を、覗き込むように。


「今日の訓練は、昨日の続き。幻術看破の——深層」


指を鳴らした。


周囲の景色が歪んだ。


中庭の木々が溶け、月が消え、空間が暗転する。


幻術結界。


零の視界を完全に支配する——レイラの領域。


暗闇の中に、レイラの声だけが響く。


「昨日は視覚幻術だった。見破れたね。——今日は精神干渉型」


足音が近づいてくる。


暗闇の中で、レイラの緑の瞳だけが光る。


「私の幻術は——相手の記憶に潜る。一番辛い記憶を引きずり出して、追体験させる。対象の精神が壊れるまで」


声が耳元に。


近い。


吐息が首筋に触れるほどの距離。


「普通の相手なら、これで終わり。でも——」


「君は違うんでしょ?」


暗闇が割れた。


そして、記憶が——引きずり出される。


王城。


鉄の臭い。


妹の悲鳴。


兵士たちの嗤い声。


王の嘲笑。


自分の手足を縛る鎖の冷たさ。


目の前で——


目の前で——


映像が零を呑み込もうとした。


だが。


零の金色の瞳が——揺れなかった。


あの日から。


あの夜から。


何度この記憶を反芻してきたか。


何度この地獄を追体験してきたか。


人界の王が精神操作を試みた時も——同じだった。


何度壊そうとされても、壊れなかった。


壊れることを、零の魂が拒絶した。


——まだ、殺していないから。


復讐が終わるまで、壊れることは許されない。


零は、精神に錨を下ろし、その光景を引きずり下ろす。


幻術が——砕けた。


だが——異変が起きた。


精神干渉型幻術は、術者と対象の精神を繋ぐ。


対象の記憶を引きずり出すために、術者自身の精神の回路を開く。


通常、それは一方通行だ。


術者から対象へ。


だが——零の精神耐性が、あまりにも強すぎた。


幻術が弾かれ、そして、引きずり下ろされた。


術者の回路を逆流し——レイラの記憶が、零の中に流れ込んだ。



◆



暗い森。


月のない夜。


エルフの里——だったもの。


焼け落ちた大樹。


散乱する遺体。


長い耳。


尖った耳。


同族の——死体。


幼いレイラがいた。


くすんだ金髪はもっと短く、緑の瞳は今よりずっと大きく見えた。


血に塗れた手。


自分の血ではない。


隣に倒れている——母親の血。


『——化け物』


声が聞こえた。


同族の声。


エルフの声。


『闇属性なんて……穢れた子……あの子がいるから……里に災いが……』


幼いレイラの周囲に、影が蠢いていた。


制御できない闇魔法。


感情に反応して暴走する力。


幼い体には重すぎる——呪いのような才能。


里が焼けたのは、外敵の襲撃だった。


だが——生き残った同族は、レイラを指差した。


『お前のせいだ』


『お前が——お前の力が、奴らを呼んだんだ』


追放。


幼い体が、焼け跡の森を一人で歩いていた。


血の跡を引きずりながら。


泣いていなかった。


泣き方を——もう忘れていた。



◆



場面が変わる。


少女のレイラ。


少し成長した体。


だが目が——死んでいた。


人を試す。


反応を見る。


裏切られる前に、先に見切る。


信じない。


期待しない。


面白がることだけが、唯一の防衛手段。


『別に。面白ければいいんじゃない?』


あの口調の原型。


笑みの下に隠された——凍えた孤独。



◆



さらに——場面が変わる。


魔王城。


リリスの前に跪くレイラ。


『お前、面白い奴だね。——うちに来なよ』


リリスの声。


あの日——レイラが初めて、誰かに「いていい」と言われた日。


緑の瞳に、光が戻った瞬間。



◆



記憶が途切れた。


中庭に戻っていた。


月明かり。


蒼白い光。


レイラが——固まっていた。


緑の瞳が見開かれ、唇が微かに震えている。


いつもの余裕は——完全に消えていた。


指先が震えている。


紅茶のカップが地面に落ち、陶器が割れる音が静寂に響いた。


「——っ」


息を呑む音。


零を見つめている。


怯えた目ではない。


もっと——もっと根源的な恐怖。


自分の奥底を、覗かれた恐怖。


「……見た、の……?」


声が掠れていた。


あのレイラが。


人を試し、からかい、常に余裕を纏っていたレイラが——声を震わせていた。


「……見たんだ?」


一歩、後退った。


月明かりの下、くすんだ金髪が風に揺れ、その表情が——剥き出しだった。


仮面が剥がれている。


「面白い」も。


「からかう」も。


「試す」も。


——全部なくなった、素のレイラがそこにいた。


長い耳が僅かに伏せられ、緑の瞳が濡れている。


泣いてはいない。


だが——泣く寸前の、あの幼い少女の目と同じだった。


「……さいあく」


震える声で、呟いた。


「私の幻術で——逆流なんて、聞いたこともない。何よそれ……何なの、君」


もう一歩、後退る。


背中が中庭の木にぶつかった。


逃げ場がない。


月光が容赦なくレイラの顔を照らしている。


「……忘れて」


小さな声。


命令ではなく——懇願だった。


「今見たこと、全部忘れて。私は——あんなの、もう……」


言葉が途切れた。


唇を噛み、視線が地面に落ちる。


だが。零は動かなかった。


後退るレイラに、追いすがることもしない。


距離を詰めることもしない。


ただ——真っ直ぐに、金色の瞳でレイラを見つめた。


「忘れる必要はない」


静かな声、そして、怒りはなかった。


普段の零ならば——自分の過去を覗かれたことに激昂していただろう。


あの記憶を。


妹の最期を。


誰にも触れさせたくない地獄を、他人に見られたのだから。


だが——レイラの目を見て、零は分かった。


同じだった。


あの幼い少女の目。


里を追われ、一人で焼け跡を歩いた少女の目。


泣き方を忘れた目。


それは——零が鏡で見てきた目と、同じだった。


「お前の過去も、お前の一部だ」


月光の下、零の声が中庭に響いた。


「それに、お前、俺の記憶も見たろ。——お互い様だ」


一歩も動かない。


追わない。


逃がさないのではなく——ここにいる、と示すように。


「辛い過去があったから、お前はここにいる。魔王様に拾われて、魔王直属四座になって、仲間がいて。——そして、あの過去がなかったら、今のキミはいない」


零の金色の瞳が、月明かりに光った。


「忘れなくていい。恥じなくていい。——俺は、見たことを後悔しない」


レイラが——息を止めた。


緑の瞳が見開かれたまま、零を見つめている。


零の記憶を見た。


あの王城。

鎖。

妹の悲鳴。


目の前で——最愛の人間が壊される光景。


零の地獄は、レイラの過去と同じか——それ以上だった。


それを見たから分かる。


零の言葉が、空虚な慰めではないことが。


同じ地獄を歩いた者にしか言えない言葉。


同じ暗闇を知る者にしか持てない重み。


「……ずるい」


掠れた声。


目元が赤い。


「そんなこと……言われたら……私……」


視線が地面に落ちた。


「私は……君の記憶、見たんだよ。あんな……あんなものを見て、平気なわけないのに……君は怒りもしないで……」


肩が震えていた。


「……ねえ、何なの。本当に何なの、君」


顔を上げた。


緑の瞳が零を捉える。


仮面のない——裸の目。


「……ねぇ」


声が小さかった。


「……もう少しだけ、ここにいて」


命令でも、懇願でもない。


ただ——初めて、レイラが誰かに「そばにいてほしい」と言った。


月が二人を照らしていた。


蒼白い光の中で、レイラの緑の瞳が——零だけを映していた。


時間が流れた。


五分か、十分か。


二人とも何も言わなかった。


やがて——レイラが目を開けた。


緑の瞳に、いつもの光が戻っていた。


だが——何かが違う。


あの「試す」ような鋭さが消えている。


代わりに、柔らかい。


透明な。


仮面を被り直したのではなく——仮面なしで、穏やかに笑っている。


「……ねぇ、零」


名前で呼んだ。


初めて——「君」でも「天津零」でもなく。


「少し、スッキリした」


木から背を離し、髪を耳にかけた。


「変だよね。誰にも見せたことなかったのに。——見られて、怒られるんじゃなくて、あんなこと言われて」


小さく笑った。


自嘲ではない。


「私ね、ずっと思ってた。幻術の才能って——どれだけ辛い過去を乗り越えたかで決まるって。精神が壊れかけて、それでも壊れなかった者だけが、他人の精神に触れられる」


零を見つめる。


「零の幻術耐性が異常なの、分かった。あんな過去を……何千回も追体験して、それでも壊れなかった。——私と同じだ。いや、私より……」


言葉を切り、首を振った。


「……ううん。比べるのはやめる。辛さに優劣なんてないし」


一歩、零に近づいた。


「零。——私たち、お互いの一番見られたくないもの、見ちゃったね」


声が柔らかい。


「秘密の共有者。……悪くないかも」


手を差し出した。


握手——ではなく、小指。


「約束。私は零の過去を誰にも言わない。零も——私のことは黙っててくれる?」


小指を差し出したまま、少しだけ首を傾げる。


「……これからは、零の前では——もう取り繕わない。疲れるし」


ふっと笑った。


「その代わり、零も。私の前では——無理に強がらなくていいから」


零は小指を差し出した。


レイラの小指に、自分の小指を絡める。


「約束だ」


短く。


だが確かに。


レイラが——笑った。


いつもの挑発的な笑みではない。


心の底から安心したような笑顔だった。


「……あはは。何これ。指切りなんて……子供みたい」


言いながら、指を離さない。


「……ねぇ、零」


やがて小指を離した。


だが——距離は近いまま。


「明日からの訓練。私、もう零に幻術かけない。意味ないし」


くすっと笑う。


「代わりに——零が幻術を使う側の訓練をしよ。あの精神耐性があれば、術者としても才能あると思う」


「それに——零と組めば、結構面白いことできそうだし」


——面白い。


その言葉の響きが、今までとは違った。


人を試す面白さではなく。


一緒にいることが——面白い。


そういう色。


「……帰ろ。明日も早いんでしょ。ルシアに怒られるよ」


踵を返しかけ——振り返った。


「零」


名前を呼ぶ声が、柔らかい。


「おやすみ。——今日は、ありがと」


ひらりと手を振り、中庭を去っていく。


足取りが軽い。


来た時とは別人のように。


零は一人、中庭に残された。


蒼い月が頭上にある。


右手の小指に、まだレイラの温度が残っていた。



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