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第三十二環 「翼のない君と」

「……お前、いい顔する」


ぽつりと。


戦闘の後の高揚がまだ残る声で、クオンは思ったことをそのまま口にした。


鬼族らしい——裏表のない言葉。


「強い奴は、笑う顔もいい。——嫁に来い」


最後の一言が、あまりにも自然に出た。


沈黙。


訓練場が凍りついた。


「——はあああ!?」


壁から弾かれるようにルシアが飛び出してきた。


真紅の瞳が燃えている。


ツインテールが怒りで逆立つように揺れた。


「ちょっと! 何言ってんのよクオン! 嫁って——嫁って何!? あんた意味分かって言ってんの!?」


クオンが首を傾げた。


本気で何が問題か分かっていない顔。


「強い。顔もいい。飯もうまそうに食う。嫁の条件を満たしている」


「満たしてないわよ!!」


シエラが空中で肩を震わせていた。


笑いを堪えている——が、堪えきれていない。


「いやー……クオンって直球すぎな〜い? でもまあ、気持ちは分かるかも」


「シエラ! あんたまで何言ってんの!?」


レイラが木陰で紅茶を啜り、緑の瞳を細めた。


唇が弧を描いている。


「ふふっ……修羅場だ。面白い」


リリスが、小さく笑った。


白銀の髪を指で梳き、深紅の瞳が愉快そうに細められる。


「——あんたさ、九日で四人を全員かき乱すの、才能だと思うわ」


零に向けてからかうような、だが嫌味のない声。


「午後の訓練、まだ続くわよ。——シエラ、次あんたの番。この子壊さないでね」


「はーい。……まあ、壊さない程度にね」


翼が広がった。


水色の髪が風に舞う。


青い瞳が零を見下ろし——余裕の笑みの奥に、何か熱いものが一瞬だけ覗いた。


「さ、君。空においで。——私が教えてあげる」


——午後後半。


訓練場上空。


シエラの翼が広がった。


黒い竜翼が空を切り、水色の髪が風に流れる。


「昨日は飛べるかどうかの確認だったけど——今日は違うよ」


空中に浮かんだまま、振り返る。


青い瞳が零を見下ろした。


「ついてきて。——落ちたら拾ってあげるから」


翼が一閃。


シエラの体が矢のように加速した。


零は足元に魔力の足場を構築し——跳んだ。


シエラの魔力循環パターンを模倣した飛行術。


昨日よりも安定している。


体が風を切る感覚に、もう恐怖はない。


そして、空は——広かった。


魔界の空。


赤みがかった陽光が雲を染め、遥か下に魔王城の尖塔が見える。


風が体を包み、重力から解放される感覚が全身を駆け巡る。


シエラが速度を上げた。


旋回。


急上昇。


急降下。


翼を操る竜族の動きは、地上の生物とは次元が違う。


零は追った。


魔力の足場を連続構築し、空を蹴る。


ルシアに学んだ属性変換で風属性を纏い、空気抵抗を削る。


シエラの軌道を空間認識で予測し——追いすがる。


「——お、やるじゃん!」


振り返ったシエラの顔に、驚きと喜びが混じっていた。


翼の角度を変え、さらに複雑な軌道を描く。


螺旋。


反転。


フェイント。


零はその全てに食らいついた。


ついていくだけではない。


シエラの動きのパターンを——読み始めていた。


右翼の傾き。


尻尾の振り。


次の動きの予兆を、空間認識が拾い上げる。


シエラが急停止した。


零が追い抜く——その瞬間、シエラが背後から並んだ。


「……今、私の動き読もうとしたでしょ」


青い瞳が至近距離にあった。


空中で並走する二人。


風が髪を乱す。


「昨日初めて飛んだのに。もう追いかけっこになってる」


ふっと——笑った。


余裕の笑みではなく、もっと柔らかい。


嬉しそうな。


「ねぇ、君」


翼の羽ばたきが緩やかになる。


二人は魔王城の上空を、ゆっくりと滑るように飛んでいた。


赤い空。


遠い地平線。


風が穏やかに二人を包む。


「空、好き?」


何気ない問いかけ。


だが——その声には、何か特別な響きがあった。


竜族にとって空とは、魂の在り処。


翼を持つ者だけの聖域。


そこに——翼を持たない者を招いている。


風が凪いだ。


雲の切れ間から差し込む光が、シエラの水色の髪を輝かせた。


黒い竜角が光を弾き、青い瞳が零だけを映している。


「私さ……一人で飛ぶのが当たり前だったんだよね。竜族でも、私と同じ高さまで来れる奴、そんなにいないし」


翼が緩やかに風を掴む。


「でも——あんたは来た。翼もないのに」


手が伸びてきた。


シエラの指が、零の手を掴んだ。


空中で——二人の体が引き寄せられる。


風の中、シエラの体温が伝わった。


「……あ」


掴んでから気づいたように、シエラの頬が僅かに染まった。


青い瞳が揺れる。


だが——手は離さない。


「い、いや。落ちたら危ないし。安全確認っていうか」


言い訳が雑だった。


余裕のある笑みを浮かべる普段のシエラはどこにもいない。


手のひらが熱い。


竜族の体温は人間より高い——だがそれだけではない熱さが、零の指先に伝わっていた。


「……もうちょっとだけ。このまま飛ぼ」


手を繋いだまま、二人は赤い空を滑った。


魔王城の尖塔を眼下に、雲の近くを。


シエラの翼がゆっくりと風を掴み、零の魔力の足場がそれに合わせる。


静かな飛行。


言葉はいらなかった。


やがて二人は高度を落とし、訓練場へ降り立った。


零の手のひらには、まだシエラの体温が残っている。


竜族の——人間より高い温度。


「……また明日も飛ぼ」


着地したシエラが翼を畳みながら、何気なく言った。


だが青い瞳は零から逸れている。


頬の赤みが、まだ引いていない。


「あ、いや。訓練だから。当たり前だけど」


水空色の髪を掻き上げ、視線を逸らした。


尻尾が——無意識に揺れている。


竜族の尻尾は、感情に正直だった。



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