第三十一環 「昨日とは違う距離」
——翌朝。
薄い朝日が窓から差し込む。
魔界の太陽は赤みがかった光を放ち、部屋を淡い琥珀色に染めていた。
昨夜の余韻が、まだ消えていない。
肩口に残るルシアの体温。
手の甲に残るレイラの指先。
二つの感触が、交互に蘇る。
——だが、零は切り替えた。
身支度を整え、黒髪を整え、部屋を出る。
朝六時。
ルシアが言った時間の十分前。
訓練場への廊下を歩く。
石畳に靴音が響く。
訓練場に着くと——既に人影があった。
ルシアが立っていた。
黒い魔導服。
黒マント。
ツインテール。
いつも通りの——完璧な「魔王軍最強の魔導師」の姿。
昨夜の震える少女の面影は、どこにもない。
零が近づくと、ルシアは振り返った。
真紅の瞳が零を捉え——一瞬だけ、揺れた。
だが、すぐに。
「遅い。十分前に来るとか、甘いわよ。私は三十分前からいるんだけど」
腕を組み、顎を上げる。
いつもの、気の強い声。
昨夜のことには——一切触れない。
「今日のスケジュール。午前は私の魔術応用。午後前半がクオンの近接、後半がシエラの機動。夜にレイラの幻術看破。——昨日より濃いから覚悟しなさい」
淡々と。
事務的に。
完璧に。
だが——零には分かった。
ルシアの視線が、一度も零の目を正面から見ていないことに。
視線が常に、零の額か、肩か、少しだけずれた場所を見ている。
「……何見てんのよ」
気づかれたか——ルシアが小さく唇を噛んだ。
「始めるわよ。昨日の魔力制御の応用。今日は属性変換。火、氷、雷——三属性を一分以内に切り替える訓練」
杖を構えた。
赤い魔法陣が足元に展開される。
「いい? 集中して。——私の動きをよく見なさい」
訓練が始まる。
だが——ルシアが魔法を見せる時、零との距離が昨日より近い。
手本を見せる際、零の手に自分の手を重ねて魔力の流れを教える場面が何度もあった。
その度に——指先が、わずかに震えている。
「……ここ。ここで属性を切り替える。分かる?」
手を重ねたまま。
声が少し小さい。
昨夜のことを、なかったことにしようとしている。
だが体が——感情が、それを許していない。
ルシアの耳が赤い。
朝の冷たい空気の中で、その赤さだけが鮮烈だった。
——午前。
ルシアの属性変換訓練が終わった。
火、氷、雷——三属性の切り替えを、零は三十分で体得した。
ルシアは「信じらんない」と呟いたきり、黙って水を差し出してきた。
指先が触れた。
どちらも何も言わなかった。
——午後前半。
訓練場。
クオンが腕を組み、訓練場の中央に立っていた。
昨日とは空気が違う。
肌に刻まれた赤い模様が、午後の光に映えている。
薄橙色の瞳が零を捉え——獰猛に、だが純粋に光っていた。
「昨日は基礎だった」
巨大な戦斧を肩に担ぐ。
その重量が空気を圧す。
「今日は——実戦だ」
地面を踏みしめた。
轟音。
石畳にヒビが走る。
鬼族の身体強化が全身を巡り、クオンの存在感が膨れ上がった。
「来い、天津零。お前の全部を見せろ。——手加減はする。殺しはしない。だが」
その瞳が、零の金色の瞳を射抜いた。
「骨の二、三本は覚悟しろ」
戦斧が構えられる。
片手で。
「神装、使っていい。——使わなきゃ持たない」
風が止んだ。
訓練場の隅に、見学者がいた。
ルシアが腕を組み、壁に背を預けている。
真紅の瞳が零を見つめている——心配と、期待が入り混じった目。
シエラが空中に浮かび、翼を広げたまま見下ろしている。
青い瞳が興味深そうに細められていた。
レイラが木陰で紅茶を飲みながら、緑の瞳を向けている。
昨夜の気配はなく——いつもの観察者の目。
だが、視線が零から外れない。
クオンが動いた。
一歩。
たった一歩で距離を詰める。
鬼族の脚力。
地面が砕ける。
戦斧が横薙ぎに振られた——空気が裂ける轟音。
昨日の訓練で知っている。
この一撃の重さ。
まともに受ければ体が千切れる。
だが今日は——昨日とは違う。
ルシアの魔力制御。
シエラの機動力。
レイラの知覚拡張。
そして——神装。
零の右手が光を帯びた。
夢幻抱擁。
1を∞に、∞を0にする神装。
クオンの戦斧が迫る。
その威力が——零の神装の力場に触れた瞬間、弱体化する。
∞を0に。
絶大な一撃が、「受けられる」一撃に変わる。
零の体が動いた。
戦斧の横薙ぎを、零は沈み込んで回避した。
風圧だけで髪が舞う。
だが——回避で終わらない。
零の左手から火球が放たれた。
クオンの顔面に向けて——だが威力は最小限。
当てるためではない。
「——ッ」
反射的にクオンが目を細めた。
その一瞬。
零の体が地を蹴った。
ルシアから学んだ属性変換——足裏に雷属性の魔力を纏わせ、爆発的な加速。
シエラの機動訓練で培った空間認識が、クオンの死角を正確に捉える。
右側面。
戦斧の振り戻しが間に合わない角度。
零の拳がクオンの脇腹に迫る——ウロボロスサーキットの微弱な発動。
1を∞に。
拳に乗せた力が増幅される。
「ぐっ——」
鬼族の肉体に拳が入った。
だがクオンは吹き飛ばない。
腹筋が衝撃を吸収し、即座に肘が落ちてくる。
零は既にいない。
着地と同時に後方へ跳び、氷属性の魔力を地面に流す。
クオンの足元が凍結——ほんの一瞬だけ動きが鈍る。
「……っ、面白い!」
氷を踏み砕き、クオンが突進した。
戦斧を片手で振り上げ、縦に叩き落とす。
大地が裂ける。
衝撃波が放射状に広がった。
零は跳躍していた。
空中——シエラの訓練で磨いた三次元機動。
魔力を足場にし、空中で方向転換。
クオンの頭上から——蹴り。
ウロボロスサーキット、最小出力。
だが増幅された踵落としが、クオンの肩を打つ。
「——ぐ、ぁ!」
膝が僅かに沈んだ。
鬼族を——膝をつかせかけた。
だがクオンの戦闘本能が反応した。
沈んだ体勢のまま、戦斧の柄で零の胴を薙ぐ。
零は腕でガード——ウロボロスサーキットで威力を減衰。
だが衝撃は殺しきれず、数メートル吹き飛ばされた。
石畳を滑り、片膝をつく。
ルシアが息を呑む。
「……今の属性変換、朝教えたばかりなのに——実戦で使ってる。しかも三属性を切り替えながら……」
拳を握りしめている。
信じられないという目。
だがその奥に——熱が宿っている。
シエラの翼が無意識に震えた。
「空中機動。あれ——私の飛行パターンの応用じゃん。翼もないのに」
竜族の本能が、何かを訴えている。
強い個体。
適応力。
——空を駆けるものの資質。
レイラは紅茶のカップを止めていた。
「……あの空間認識。幻術看破で培った知覚拡張を、戦闘に転用してる」
緑の瞳が、零の動きから一瞬も外れない。
訓練場の中央で、クオンが笑っていた。
獰猛に。
歓喜に満ちて。
瞳が燃えている。
「いい。——いいぞ、天津零」
戦斧を構え直した。
だが——構えが変わっている。
両手持ち。
重心が低い。
本気の構え。
「——ここからは、少し本気出す」
空気が変わった。
殺気ではない。
純粋な闘気。
鬼族の魔力が噴き上がり、クオンの周囲の空気が歪む。
零は息を整えた。
肋骨が軋んでいる。
さっきの一撃のダメージ。
だが——まだ動ける。
クオンが踏み込んだ。
先程とは次元の違う速度。
零の空間認識が叫ぶ——右。
体を捻る。
戦斧の刃が頬を掠めた。
血が散る。
だが零は笑っていた。
——口元だけ、微かに。
反撃の拳を——
「そこまで」
声が降ってきた。
凛として、絶対的な響き。
リリスが訓練場の入口に立っていた。
白銀の髪が風に揺れ、深紅の瞳が二人を見据えている。
「クオン、それ以上は壊れるわよ。——お前じゃなくて、訓練場が」
クオンが戦斧を下ろした。
荒い息。
だが——満足げな笑みを浮かべていた。
「……強くなった。昨日と別人だ」
薄橙色の瞳が真っ直ぐに零を見つめた。
尊敬とも、何か別のものともつかない熱が宿っている。
「明日も来い。——お前と戦うのは、楽しい」
リリスが腕を組み、零を見つめていた。
「……九日でここまでか」
深紅の瞳が細められた。
「——悪くないじゃん」
零はクオンに向き直り、口元に笑みを浮かべた。
「ありがとう、クオン。明日もよろしく頼む!」
真っ直ぐな声。
飾らない感謝。
クオンが目を丸くした——一瞬だけ。
そしてすぐに、不器用な笑みが浮かんだ。
「……ああ。明日はもう少し本気でいく。覚悟しろ」
戦斧を肩に担ぎ直す。
だが——その瞳が、零から離れない。
いつもより長く、零の顔を見つめていた。




