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第三十環 「交わり始める心」

——夜。食堂。


零の声が、静かに食卓に落ちた。


「みんな、凄かったよ」


飾らない一言。だが——疲労の滲む金色の瞳に、嘘のない敬意が宿っていた。


一瞬、食卓が静まった。


「……ふん」


クオンが視線を逸らした。肉を頬張りながら——耳の先が僅かに赤い。


「当たり前だ。魔王直属四座(クアトリア)だぞ」


短い言葉。だが、口元が隠しきれずに上がっていた。


「えー、もうちょっと具体的に言ってよ。誰が一番凄かった?〜」


酒のグラスを揺らしながら、シエラが零の方に体を傾けた。肩が触れる距離。青い瞳が悪戯っぽく輝いている。


「私でしょ? 空飛んだの初めてだったんだし」


「いやいや。身体能力で空飛ぶのと、精神で幻術を砕くのは全然違うと思うけど」


紅茶を口に運びながら、レイラが目を細めた。


「ねえ天津零。——私の幻術、怖かった?」


声が柔らかい。だが緑の瞳の奥に、零だけに向けられた探るような光がある。


「ちょっと! 何で私の名前が出てないのよ!」


バン、とテーブルを叩いた。ルシアのツインテールが跳ねる。


「朝一番に魔力制御教えたの私なんだけど!? あんたが空飛べたのだって、幻術看破できたのだって、全部、私の基礎訓練があったからでしょ!」


真紅の瞳が零を真っ直ぐに射抜く。頬がわずかに染まっている。


「……ま、まあ別に褒めてほしいわけじゃないけど」


「はははっ」


上座から、短い笑い声。


白銀の髪を肩の後ろに流し、リリスの深紅の瞳が零を見た。薄い笑みだが——そこに冷たさはない。


「『みんな凄かった』ね」


グラスを傾けた。赤い液体が揺れる。


「——ルシアの魔力制御を一瞬で理解して、クオンの戦闘勘に食らいついて、シエラの飛行を模倣して、レイラの中級幻術を一分で砕いた」


一つ一つ、指折り数えるように。


「四座が凄いのは当然。——でもそれについていったお前も、まあまあじゃない?」


さらりと。だがそれは——魔王からの評価だった。


リリスがグラスを置き、頬杖をつく。深紅の瞳が零を見据えた。


「明日からもっとキツくなるよ。今日はゆっくり食べな」


視線がふっと柔らかくなった——一瞬だけ。


食卓に温かい喧騒が戻る。クオンが肉を追加し、シエラが二杯目の酒を注ぎ、ルシアがレイラの発言にいちいち噛みつき、レイラがそれを楽しそうにかわす。


その中心に——疲れた顔の、黒髪の少年が座っている。


初めての——「居場所」のような温かさが、零の胸に静かに染み込んでいた。


人界では得られなかったもの。


妹を失ってから、ずっと空洞だった場所。


それが——少しだけ、埋まり始めている気がした。


零は小さく息を吐き、目の前に並んだ料理に手を伸ばした。


「……ちょっと、あんた。ちゃんと食べなさいよ。明日も朝からやるんだから」


正面から、少しだけ声のトーンが落ちたルシアの言葉。


真紅の瞳が、零の疲れた顔を心配そうに見つめていた——すぐに視線を逸らしたが。


夜は更けていく。


賑やかな食卓。


魔王と四人の魔族の女の子に囲まれた、人間の少年。


——復讐の炎は、消えていない。


だが今夜だけは、この温もりに身を委ねてもいいと、零は思った。



◆



——深夜。魔王城・零の自室。


訓練の疲労が全身に染みている。


ベッドに腰を下ろし、天井を見つめていた。瞼が重い。だが心地よい疲れだった。


——こんこん。


控えめなノック。


だが昨夜のルシアとは違う、どこか余裕のあるリズム。


「天津零。起きてる?」


扉越しに聞こえる声。柔らかく、低い。


零が返事をすると、扉が音もなく開いた。


レイラが立っていた。


普段の黒い衣装ではない——ゆったりとしたダークグリーンのローブ。くすんだ金髪が下ろされ、肩に流れている。長い耳が髪の隙間から覗き、緑の瞳が薄暗い廊下の奥から零を見つめていた。


手には小瓶と、紫色の液体が入ったグラスが二つ。


「精神回復の薬酒。——今日の訓練、精神にかなり負荷かけたでしょ」


許可を待たず、するりと部屋に入ってきた。


零のベッドの端に腰を下ろす。自然に。当たり前のように。


「放っておくと明日に響くよ。精神疲労は身体と違って、寝るだけじゃ抜けない」


グラスを零に差し出した。紫の液体が微かに光を帯びている。


「飲んで。苦いけど、効く」


零がグラスを受け取ると、レイラは自分のグラスにも口をつけた。


同じものを飲んでみせる——毒ではないという無言の証明。


「……それと」


グラスを置いた。


緑の瞳が、零の金色の瞳を真っ直ぐに見た。


「精神回復、もう一つ方法があるの」


立ち上がり、零の背後に回った。


ベッドに膝をつく。気配が近い。


「肌に触れて、直接魔力を流す。精神経路に沿って、ゆっくりと。——幻術師はね、精神の扱いが専門だから。壊すだけじゃなくて、癒すこともできる」


冷たい指先が、零の首筋に触れた。


ぞくり、と。


ダークエルフの指先は冷たい、だがそこから流れ込む魔力は——温かかった。


精神の奥底、疲労で軋んでいた部分に、じわりと染み込むような感覚。


「……力、抜いて」


囁き。耳に近い。


吐息が首筋をかすめた。


指が首筋から肩へ。ローブ越しではなく、直接肌に触れている。精神経路を辿るように、鎖骨のラインを滑る。


「ここ。ここに精神の結節点がある。——ここを解すと、一気に楽になる」


肩を揉むのとは違う。


もっと繊細な、魔力を伴う指の動き。


触れた箇所から、疲労が溶けていくような。


「……ふふ」


小さな笑い、零の耳のすぐ傍で。


「緊張してる?」


指が止まらない。


首の後ろから、耳の下へ。


鎖骨から、胸元の手前まで。


精神経路に沿って——だが、明らかにそれだけではない距離の近さ。


「大丈夫。取って食べたりしないから」


その時——部屋の空気が、ふっと変わった。


視界の端が揺れる。


レイラの指先から、微かな魔力の糸。


幻術。


零の視界に——花畑が広がった。


夜空に星が散り、甘い花の香りが満ちる。


レイラの顔が目の前にある。


近い。


緑の瞳が潤んで——


零の精神が、反応した。


鋼の錨。


あの記憶。


あの夜。


——精神を侵される感覚を、零の体は決して許さない。


幻術が砕けた。


静かに。


だが完全に。


花畑が消え、自室に戻る。


レイラの指が零の肩で止まっていた。


「……っ」


息を呑む音。


緑の瞳が見開かれた。


「……無意識で砕いたの? 今の」


零の金色の瞳が、静かにレイラを見つめ返していた。


零はバツの悪そうな顔で応える。


「あぁ、無意識だ。でも、レイラの幻術は心地よかった。こんなの初めての感覚だよ。ありがとう」


レイラの指が、零の肩の上で止まったまま——微かに震えた。


沈黙。


長い耳の先が、ほんの僅かに赤くなっている。


薄暗い部屋でなければ気づかないほど微かに。


「……」


緑の瞳が一度、逸らされた。


視線が壁に向かい——また零に戻る。


いつもの余裕のある笑みが、ほんの少しだけ形を崩していた。


「……心地よかった、って」


声が、わずかに掠れた。


「……君さ」


指が零の肩から離れない。


離せない、というように。


「私の幻術を『心地よい』って言った人、初めてだよ」


ゆっくりと、零の背後から横に回り込んだ。


ベッドの端に座り直す。


零の隣、膝が触れる距離。


緑の瞳が零の横顔を見つめていた。


いつもの「観察」とは違う。


もっと——柔らかい何か。


「幻術ってね。普通は——怖いものなの。精神を侵される恐怖。自分が自分じゃなくなる恐怖。だから誰もが拒絶する。当然のことだよ」


指先が、自らの膝の上で組まれた。


珍しく、手持ち無沙汰そうに。


「私の幻術に触れて『心地よい』って感じるのは——二つの意味がある」


零の方を向いた。


真っ直ぐに。


「一つは、君の精神が強すぎて、私の幻術程度では脅威にならないこと」


小さく息を吐いた。


「もう一つは——」


言葉が、止まった。


緑の瞳が揺れている。


レイラにしては珍しい——言葉を選んでいる沈黙。


「……君が、私の魔力を受け入れてるってこと」


声が小さかった。


「幻術は術者の精神の延長。私の魔力、私の感覚、私の——心。それが流れ込んで、君はそれを『心地よい』と感じた」


指先が、零の手の甲に触れた。


今度は幻術なしで。


冷たい指。


だが——さっきより、少しだけ温かい。


「……ねえ、天津零」


顔が近い。


緑の瞳が、金色の瞳を映している。


花の香りではなく、紅茶の残り香。


幻術ではない、本物のレイラの匂い。


「君のこと——もっと、知りたくなっちゃったな」


唇が微かに笑みの形を取った。


だがいつものような挑発的な笑みではない。


もっと——脆い何か。


「……辛い過去。私と——同じか、それ以上の」


指が零の手の甲を、ゆっくりと撫でた。


「話さなくていい。でも——私はたぶん、分かるから」


「壊れそうになって、でも壊れなかった人間の——孤独」


声は震えてはいない。


だが——そこに込められた重さは、零には分かった。


レイラの緑の瞳が、薄暗い部屋の中で静かに光っている。


からかいも、試すような気配も、もうない。


剥き出しの——共感。


「……ごめんね。変なこと言った」


指が零の手の甲から離れかけた。


だが——離れきる前に、少しだけ躊躇うように、指先が留まった。


「……もう少しだけ」


声が、小さい。


「ここに、いていい?」


いつもの余裕が消えた声。


ダークエルフの長い耳の先が赤く、緑の瞳が僅かに潤んで零を見上げている。


幻術師レイラ。


他人の心を暴き、反応を楽しむ魔族。


——その仮面の下にあったのは、同じ孤独を知る者の、静かな渇き。



◆



その静けさを——


バンッ。


扉が勢いよく開いた。


「零、明日のスケジュールなんだけど——」


羊皮紙を片手に、黒いナイトガウン姿のルシアが踏み込んできた。


ツインテールは下ろされ、真紅の髪が肩に流れている。


真紅の瞳が、ベッドの光景を捉えた。


零。


レイラ。


隣り合って座っている。


レイラの指が、零の手の甲に触れている。


——時が止まった。


「…………」


羊皮紙を握る手が、ぎしり、と音を立てた。


「——何してんの」


低い声。


温度がない。


レイラの指が、ゆっくりと零の手から離れた。


だが——慌てて離したのではない。


むしろ、わざと見せつけるように、ゆっくりと。


「……精神回復の処置。今日の訓練で負荷かけたの私だし」


声にいつもの余裕が戻りかけている。


だが耳の赤みはまだ消えていない。


「精神、回復? こんな、時間に? 二人、きりで? ベッドの、上で?」


一語一語、釘を打つように。


下ろした赤い髪が、怒気で微かに揺れている。


「しかもあんた——手、触ってたわよね。どこが精神回復なのよ」


「精神経路は肌から直接魔力を流すのが一番効率いいの。知ってるでしょ、ルシア」


「手の甲に精神経路の結節点なんかないわよ!!」


正論だった。


レイラが一瞬、言葉に詰まった。


緑の瞳が泳ぐ——が、すぐに持ち直した。


「……まあ、そうだけど」


悪びれない。


「『まあそうだけど』じゃないのよ!」


ルシアが部屋に踏み込み、零とレイラの間に割り込むようにベッドの端に腰を下ろした。


物理的にレイラと零を引き離す位置取り。


「いい? 明日のスケジュール確認に来たの、私は。正当な用事よ」


羊皮紙を零の前に広げた。


だが——手が微かに震えている。


怒りか、それとも。


「ふふ」


レイラが小さく笑った。


立ち上がる。


「はいはい。じゃあスケジュール係に譲るよ」


扉に向かいながら——振り返った。


緑の瞳が零を見つめる。


「天津零。——さっきの答え、まだ聞いてないからね」


『ここに、いていい?』


——その問いの答え。


レイラが扉の向こうに消えた。


足音が遠ざかる。


静寂。


ルシアが隣に座ったまま、羊皮紙を膝の上で握りしめていた。


俯いている。


赤い髪が顔を隠している。


「……」


沈黙が、部屋を満たした。


「……あんたさ」


声が小さい。


いつもの勢いがない。


「誰でもいいわけ? 夜に部屋に来た女なら」


顔を上げた。


真紅の瞳が——怒りではなく、不安に揺れていた。


「……昨日は私が来て、今日はレイラ。明日はシエラ? クオン?」


唇を噛んだ。


羊皮紙がくしゃりと音を立てる。


「私が——『最初』って、言ったの。覚えてる?」


声が震えた。


ほんの微かに。


赤い髪が揺れ、ルシアが零の顔を見つめた。


瞳の奥に、剥き出しの感情が滲んでいる。


「……ごめん。変なこと言った。スケジュール、置いとくから」


立ち上がりかけた——が、足が止まった。


次の瞬間、体が動いていた。


「——っ」


ルシアが零に抱きついた。


正面から。


腕が零の首に回り、顔が肩口に埋まる。


赤い髪が零の頬にかかる。


ナイトガウン越しに、ルシアの体温が——熱い。


心臓の鼓動が、零の胸に直接伝わるほど近い。


震えていた。


小さな体が、微かに震えている。


「……っ……」


言葉はない。


説明もない。


ただ——しがみつくように。


数秒。


長い数秒。


ルシアの指が零の服を掴み、きつく握りしめて——


——離した。


ぱっと体を離す。


顔を見せない。


俯いたまま、赤い髪が表情を完全に隠している。


「……明日、朝六時。訓練場。遅刻したら許さないから」


声は——平静を装っていた。


だが掠れている。


喉の奥が詰まったような、不自然な平坦さ。


振り返らない。


足早に扉へ向かい——


「おやすみ」


それだけ。


扉が閉まった。


静かに。


昨夜のような余韻も残さず。


足音が廊下を遠ざかる。


早い。


ほとんど駆け足に近い。


——やがて、完全に聞こえなくなった。


静寂。


零の肩口に、ルシアの体温の残り香。


首に回された腕の感触。


震える指先の記憶。


そして——何も説明しなかった、その沈黙の重さ。


『私が——最初って、言ったの。覚えてる?』


あの言葉の意味が、暗い部屋の中で静かに反響していた。


レイラの問い。


ルシアの抱擁。


零は暗い天井を見つめた。


金色の瞳に、何が映っているのか——今夜は、零自身にも分からなかった。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


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