第二環 「魔王城の朝」
――静かになった廊下に、零だけが残される。
目の前には与えられた部屋の扉。重厚な黒い木で造られた、魔界らしい意匠の扉だった。
部屋の中は質素だが、ベッドと机、簡素な棚が置かれている。人間の感覚で見れば十分な広さだ。窓の外には、赤黒い魔界の空が広がっている。
部屋はそれなりに広い。魔王城の一室だけあって、質素とはいえ造りはしっかりしている。
室内にはベッドと机、それに小さな棚があるだけだった。窓の外には赤黒い空と、紫色の月にも似た光体が浮かんでいる。
クローゼットを開けば、なぜか零の身体に合いそうな黒い衣服まで用意されていた。
「……随分と待遇がいいな」
少なくとも、今すぐ殺すつもりはないらしい。
その他にも特に危険なものや罠の気配はない。最低限の生活ができる環境は整っている。
すでに、時間は夜。零は久しぶりのベットに体を預けた。
そして、警戒心は離さず、眠りにつく。
◆
翌朝、零は外からの声で目が覚めた。
内容としては服を着替えて出て来いというもの。
零はクローゼットにかけてある黒を基調とした衣装に手を通す。
魔界の朝は薄暗い。窓の外の空は赤黒いままだが、紫色の光体が少しだけ位置を変えていることで、時間の経過が分かる。
黒のシャツに、暗色のコート。魔界の素材で作られているのか、軽いが丈夫そうだ。サイズも悪くない。鏡に映る自分の姿は、黒髪に金色の瞳が映えて、魔族の中に紛れても違和感が薄そうだった。
着替えを終えた頃――
コンコン。
再び扉が叩かれた。
「おはよー。起きてる?」
扉の向こうから、シエラの声が聞こえる。
「朝飯、食堂でみんな集まるんだけどさ。あんた場所分かんないでしょ。案内してあげるよ」
気負いのない、自然な声だった。
扉を開けるとシエラが壁に背を預けて待っていた。空色の長い髪が揺れ、青い瞳が零を上から下まで眺める。
「へぇー……似合ってるじゃん。黒い服」
軽く口角を上げ、廊下を歩き始める。
「こっち。食堂はちょっと遠いけど、まあすぐ覚えるよ」
廊下は広く、黒い石造りの壁に魔法の灯火が等間隔に並んでいる。すれ違う魔族たちが零をちらりと見るが、シエラと一緒にいるためか、手を出してくる者はいない。
「昨日さ、君、結構肝座ってたよね。魔王様の前であの態度」
くすっと笑いながら、肩越しに振り返る。
「正直、すぐ殺されるかと思って見てたんだけどさ。魔王様がこんなふうに興味持つの、珍しいんだよね」
やがて、大きな扉の前に辿り着いた。中から食器の音や声が聞こえてくる。
「ここが食堂。朝はだいたいみんな揃うから。――あ、ルシアに睨まれても私のせいにしないでよ?」
軽くウインクして、扉を押し開けた。
食堂は広い。長いテーブルが中央に据えられ、魔界らしい重厚な造りだが、雰囲気は意外と気楽なものだった。
「……来たの」
ルシアが真紅の瞳で一瞥し、すぐに視線を逸らした。目の前の皿には甘そうなパンケーキが山盛りになっている。
「おはよう、天津零。よく眠れた? 魔界の夜は人間には辛いかと思ったけど」
レイラは紅茶のカップを傾けながら、零を試すように楽しそうに微笑んでいる。
「……。」
クオンは黙々と大量の肉を頬張っていた。零が席に着くと、一度だけ顔を上げ、小さく頷いた。それが挨拶らしい。
シエラが天津零の隣に腰を下ろす。
「はい、そこ座って。好きなもの取っていいよ」
テーブルには様々な料理が並んでいる。肉料理、パン、果物――見たことのない食材もあるが、毒々しい見た目のものは少ない。
そして、零が席に着いたその時、食堂の奥の扉が開いた。
「……ん」
白銀の髪を揺らしながら、まだ少し眠そうな顔のリリスが姿を現した。魔王装束ではなく、黒いローブを緩く羽織っただけの姿。
「魔王様! おはようございます!」
ルシアが即座に背筋を伸ばし、表情が輝く。
「……おはよ」
リリスは欠伸を噛み殺しながら上座に座り、零には一瞬だけ目を向けた。
零は食卓を見て、迷わず食材を手に取り、口に運ぶ。
高たんぱくな肉を中心に、見慣れぬ果実や穀物を選び、黙々と口に運ぶ。味を楽しむというより、身体を作るための食事――そんな食べ方だった。
毒かもしれない、罠かもしれない。そんな躊躇は微塵もない。
「あはっ」
リリスが頬杖をつきながら、小さく笑った。
「面白いわね、あんた。魔王の城で出された飯を、何の疑いもなく食べるんだ」
くすくすと笑うリリス。
「ねえ、もしかして毒とかって、考えなかったの?」
試すような視線でレイラは零を見つめている。
「……バカなのか度胸があるのか分かんないわね」
ルシアは呆れたように目を瞑っていた。
「いやまあ、潔くていいんじゃない? いちいちビクビクされるよりさ」
シエラはグラスの中の水を飲み干した。
「……うまいだろ。肉」
クオンは不意に口を開く。そして、自分の皿から骨付き肉を一本取り、零の皿に乗せる。
「お前、気に入った。食え。強くなる」
リリスは紅茶を一口含みながら、天津零を眺めている。
「命を捧げるって言った割には、毒殺されても文句ないって顔してるわね」
その深紅の瞳には、昨日よりも僅かに――本当に僅かに、興味の色が増していた。
そして、小さな声呟いた。
「……嫌いじゃないわ、そういうの」




