↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/117

第二十八環 「心に打つ錨」

——夕方。


魔王城の書庫に隣接する小部屋。


そこが、レイラの「教室」だった。


壁一面を埋め尽くす本棚。


紅茶の香り。


薄暗い照明。


窓には遮光布が掛けられ、外からの光は完全に遮断されている。


「——お疲れみたいだね」


レイラが向かいの席に座っていた。


長い耳が、くすんだ金髪の隙間から覗いている。


緑の瞳が紅茶のカップ越しに零を見つめた。


「クオンに殴られて、シエラに追い回されて」


紅茶を一口。


そして、唇の端が上がる。


「安心して。私の授業は体力使わないから」


「助かる」


「——その代わり」


カップを置く。


音が——しなかった。


「頭と……心を使ってもらうけど」


「…………」


机の上に羊皮紙が広げられる。


幻術の基礎理論。


魔力による知覚の操作。


五感への干渉。


精神防壁の構造。


「まず座学ね」


レイラが羊皮紙を指差した。


「幻術っていうのは、簡単に言えば——嘘を真実に見せる技術」


指先が図を辿る。


「人間でも魔族でも、世界を認識してるのは脳」


「…………」


「目で見て、耳で聞いて、肌で感じて——最後に脳が『これが現実だ』って判断する」


緑の瞳が零を捉えた。


「幻術は、その判断に介入する」


「脳を騙すってことか」


「正解」


レイラが笑う。


「嘘の情報を送り込んで、本人にそれを現実だと思い込ませる」


そして。


「つまり——幻術にかかっている間、本人は『幻だ』と気づけない」


笑みが深まる。


「それが怖いところ」


紅茶をもう一口。


「看破する方法は、大きく三つ」


指を一本立てる。


「一つ——魔力の揺らぎを検知する。幻術は必ず術者の魔力を媒介にするから、不自然な魔力の流れがある」


二本目。


「二つ——論理の矛盾を見抜く」


「矛盾?」


「幻は術者の想像力に依存する。現実には必ず膨大な情報量がある。でも幻で、その全部を完璧に再現するのは難しい」


羊皮紙を指先で叩く。


「影の向き。風の温度。音の反響。匂い。細部を探せば、どこかに綻びが出る」


そして。


三本目。


「最後」


緑の瞳が僅かに細くなる。


「——自分の精神に、錨を打つ」


「錨?」


「『これは本当に現実か?』って常に問い続ける意識」


レイラが自分の胸を指差す。


「自分が自分であるっていう確信。それを現実に繋ぎ止める錨にする」


羊皮紙を巻き、脇へ置く。


「——さて」


立ち上がった。


部屋の照明が——ふっと揺れる。


「座学はここまで」


レイラの笑みが深くなる。


「実技、いこうか」


「何をする?」


「簡単」


指を鳴らした。


——パチン。


何も変わらない。


部屋。


本棚。


紅茶の香り。


薄暗い照明。


そして——レイラ。


全て。


先ほどと同じ。


「…………」


「もうかけてるよ」


声が——二重に聞こえた。


右。


左。


いや。


後ろからも。


零が振り返る。


そこには——。


三人のレイラがいた。


同じ姿。


同じ笑み。


同じ緑の瞳。


「「「さっき教えた三つの方法」」」


三人が同時に笑う。


「「「試してみて」」」


「…………」


「「「当ててごらん」」」


そして。


「「「——どれが本物?」」」


三人のレイラが、まったく同じ笑みを浮かべながら零を見つめている。


零は答えない。


先ほど教えられた三つの方法を、頭の中で反芻する。


——一つ目。


魔力の揺らぎ。


零は静かに目を閉じた。


午前中。


ルシアとの訓練で研ぎ澄まされた魔力感知。


そして先ほど、シエラの飛行術を模倣した時と同じように——空間を満たす魔力の流れへ意識を集中する。


右。


中央。


左。


三人のレイラ。


「…………」


——分からない。


零が僅かに眉を寄せた。


三人全てから、まったく同じ密度の魔力を感じる。


揺らぎもない。


流れも均一。


僅かな濃淡すら——存在しない。


当然だった。


相手は魔王直属四座。


そして——魔界最高峰の幻術師。


「「「ふふ」」」


三人のレイラが同時に笑った。


「「「魔力だけじゃ分からないでしょ?」」」


「……ああ」


「「「私、一応これが専門だからね」」」


三つの声。


三つの笑み。


それすら完全に重なる。


「「「そんな簡単に見破られたら、四座なんて名乗れないよ」」」


零が目を開いた。


なら——。


二つ目。


現実との矛盾。


三人を観察する。


呼吸。


視線。


影。


髪の揺れ。


瞳に映り込む照明。


衣服の皺。


足元。


そして——。


「…………」


ある。


ほんの僅かに。


左のレイラ。


その足元から伸びる影が、照明の位置と僅かにずれている。


右のレイラ。


くすんだ金髪の一房だけが、部屋の空気の流れと逆方向へ揺れた。


なら。


中央が——本物。


「……お前だ」


零が中央のレイラを指す。


三人が——同時に笑った。


「「「残念」」」


——パチン。


指が鳴る。


次の瞬間。


中央のレイラが、煙のように掻き消えた。


右も。


左も。


消える。


「……っ」


背後。


「——全部、偽物」


囁き声。


耳元で声がした。


零が振り返る。


誰もいない。


「二つ目も失敗だね」


今度は——頭上。


零が顔を上げる。


そこにも。


誰もいない。


くすくす。


笑い声だけが部屋中から響く。


「でも惜しかったよ」


右。


左。


後ろ。


前。


位置が——分からない。


「ちゃんと綻びには気づいてた」


「なら、なんで外れた?」


「あれも幻だから」


「……何?」


「影のずれも。髪の揺れも」


楽しげな声。


「私がわざと見せた——偽物の綻び」


「…………」


零の表情が変わる。


看破するために探した情報。


それすら——罠。


「幻術師を相手にする時、一番危ないのはね」


声が近づく。


「自分は幻を見破った——って思い込むこと」


耳元で。


囁く。


「一度そう思った人間は、自分から騙されてくれるから」


「……なるほどな」


零は小さく息を吐いた。


強い。


剣でもない。


魔法の威力でもない。


これまでの三人とは——まるで違う。


戦う前から。


既に、相手の掌の上。


それが——レイラの戦い方。


「さて」


声が響く。


「残るは三つ目」


精神の錨。


「やってみて」


零が目を閉じる。


「ただし」


レイラの声から、僅かに笑みが消えた。


「これは、さっきまでみたいな間違い探しじゃない」


「…………」


「自分が自分であるっていう確信を——見つけるの」


世界から。


音が——消えた。


「見つけられなかったら?」


零が問う。


少しの沈黙。


そして。


「——幻に呑まれる」


その言葉を最後に。


完全な静寂が訪れた。


零の意識が——沈む。


深く。


さらに——深く。


自分の内側へ。


精神の錨。


自分が自分であるという確信。


現実へ繋ぎ止めるための——鎖。


何がある。


自分の中に。


絶対に。


誰にも変えられないもの。


——暗い。


意識の奥底。


そこに。


焼きついた記憶が——あった。


『——お兄ちゃん』


「…………っ」


忘れるはずがない。


妹の——一華の声。


暗闇の中。


光景が浮かぶ。


兵士たち。


押さえつけられる、小さな身体。


自分は。


動けない。


何も。


できない。


ただ。


見せつけられる。


『お兄ちゃん——!』


拳が震えた。


幻ではない。


記憶。


あの日。


現実に起きたこと。


零の精神を壊すために。


心を折り。


支配するために。


何度も。


何度も。


人界の王は——零の精神へ干渉した。


恐怖を植え付け。


絶望を見せ。


記憶を揺さぶり。


自分が何者なのかすら——分からなくなるほどに。


それでも。


一つだけ。


消えなかった。


奪われなかった。


変えられなかったもの。


——妹を殺された。


——俺は、あいつを殺す。


殺す。


殺す。


殺す。


殺す。


憎悪。


復讐。


それだけは。


どれだけ精神を弄られても。


消えなかった。


むしろ。


深く。


深く。


零という人間の中へ——刻み込まれた。


王は零の精神を完全には支配できなかった。


だから。


零は——逃げ出せた。


暗闇の中。


零が顔を上げる。


金色の瞳が——開いた。


「俺は——」


誰に言うでもなく。


呟く。


「天津零だ」


暗闇が僅かに——揺れる。


「一華を殺された」


ひびが入る。


「何もできなかった」


さらに。


「だから——」


拳を握る。


「俺は、あいつを殺す」


——亀裂。


世界中へ。


金色の亀裂が走る。


「それだけは——」


零が前を見る。


「誰にも変えさせない」


そして。


「——ここは現実じゃない」


世界が——砕けた。


——パリン。


ガラスが割れるような音。


暗闇が。


三人のレイラが。


小部屋が。


全て。


無数の欠片となって——崩れ落ちる。


零が目を開いた。


そこは。


同じ部屋。


——ではなかった。


配置が違う。


机の位置。


椅子。


本棚。


紅茶。


最初に部屋へ入った時から——僅かに違う。


零の正面。


椅子に腰掛けたレイラが。


紅茶のカップを持ったまま——固まっていた。


「——」


緑の瞳が見開かれている。


長い沈黙。


レイラがゆっくりとカップを置く。


——かちゃり。


音がした。


これまでの彼女なら、決して立てなかったような——小さな音。


「……今の」


声からはいつもの余裕が——消えていた。


「魔力感知で破ったんじゃない」


零を見る。


「論理的に見破ったわけでもない」


立ち上がる。


「三つ目……」


零へ歩み寄る。


「精神の錨」


緑の瞳が、金色の瞳を覗き込む。


「……君」


いつものように笑おうとして——やめた。


「精神干渉への耐性が、異常だよ」


「そうなのか?」


「そうなのか、って……」


レイラが僅かに眉を寄せる。


「今のは中級幻術。それも、看破しようとすればするほど深く嵌まるように組んである」


一歩、近づく。


「魔族の兵士でも、自力で抜け出すには数分はかかる」


「…………」


「それを君は——術式を解いたんじゃない」


一拍。


「幻術そのものを、精神力で押し返した」


レイラの声が、少しだけ低くなる。


「そんなの、普通じゃない」


今まで零へ向けられていたのは。


好奇心。


観察。


そして。


面白い玩具を見つけたような——興味。


だが。


今は違う。


緑の瞳が、もっと深い場所を見ようとしている。


零の顔を、レイラはじっと見つめていた。


探るように。


けれど——いつものような、相手を試す目ではない。


もっと深いところにある何かを、理解しようとする目。


「精神に錨を打つっていうのはね」


レイラが静かに口を開く。


「知識として覚えただけじゃ、本当の意味では使えない」


「…………」


「自分が自分じゃなくなりそうな時。それでも絶対に手放せないもの——自分を自分でいさせてくれる何かを見つけて、初めて錨になる」


緑の瞳が、零の金色の瞳を見つめる。


「君のは……強すぎるんだよ」


一歩、レイラが近づいた。


「まるで——」


その手が上がる。


冷たい指先が、零の頬にそっと触れた。


「一度、本当に壊されかけたことがあるみたいに」


「…………」


零の表情は変わらない。


だが。


その金色の瞳の奥に——ほんの一瞬。


何かが揺れた。


レイラは、それを見逃さなかった。


「……零」


先ほどまでの軽さは、もうない。


からかいも。


好奇心も。


相手を試すような響きもない。


ただ——静かな声。


「君、何をされたの?」


零は答えなかった。


沈黙。


一秒。


二秒。


三秒。


レイラは急かさない。


頬に触れたまま、ただ待っている。


だが——。


やがて。


「……そっか」


指先が離れた。


「ごめん。今のは忘れて」


「…………」


「幻術師ってね。人の心を覗くのが仕事みたいなところがあるから」


いつものように笑おうとして——少しだけ、失敗した。


「つい、踏み込みすぎるんだ」


レイラが零から離れ、元の椅子へ戻る。


紅茶のカップを手に取る。


一口。


「…………」


そして。


「でも、一つだけ」


カップを置く。


今度は静かな音だった。


緑の瞳が、柔らかく細められる。


「君の心は、壊れなかった」


「…………」


「何をされたのか、私は知らない」


聞かない。


無理に暴こうともしない。


ただ。


零という人間を——見る。


「それでも、自分を見失わずにここまで来た」


ほんの少しだけ。


レイラが笑った。


それはこれまで零に見せてきた、妖艶で掴みどころのない笑みとは違う。


もっと静かな。


どこか——寂しさを知っているような笑顔。


「——それは、すごいことだよ。零」


零は何も答えなかった。


けれど、その言葉だけは。


不思議と——嫌ではなかった。


レイラも、それ以上は何も聞かなかった。


二人の間に流れる沈黙。


けれどそれは。


先ほどまでとは少しだけ違う。


互いの過去を、まだ何も知らない二人。


それでもこの瞬間。


レイラは初めて——。


天津零という男の強さの奥にあるものへ、ほんの少しだけ触れた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。