第二十七環 「竜の空へ」
——午後。
訓練開始から一時間。
シエラが上空で翼を止めた。
「…………え?」
見下ろした先零が浮いていた。
拙い。
不安定。
体は僅かに傾き、高度も二メートルほどしかない。
それでも確かに——地面から足が離れている。
魔力が零の足元から噴き出すように渦巻いていた。
夢幻抱擁が魔力の流れを増幅し、通常なら成立しないはずの浮遊を、強引に成立させている。
「ちょ——待って待って待って」
シエラが急降下する。
零の目の前で黒い竜翼を広げ、ホバリング。
空色の瞳が大きく見開かれていた。
いつもの余裕のある笑みが、完全に消えている。
「飛んでる。君。今——飛んでるよね?」
零の身体を見る。
足元。
魔力の流れ、その循環。
「……私の魔力循環を、見て真似した?」
「…………」
「一時間で?」
シエラの飛行は、竜族固有の魔力循環に基づいている。
翼はあくまで補助。
本質は、体内の魔力を特定の経路で循環させ、重力に対する反発力を生み出すことにある。
それを——零は魔力の流れだけを観察し、自分の身体で再現した。
午前中。
ルシアの訓練によって「魔力の流れを読む」感覚が研ぎ澄まされていたからこそ、シエラの飛行を支える魔力循環が見えた。
そして。
夢幻抱擁が、本来なら足りない出力を補い——。
不完全ながらも飛行を成立させた。
「……嘘でしょ」
シエラの口から、思わず声が漏れる。
竜族が長い年月をかけて身につける飛行術。
その根幹を。
人間が——たった一時間で模倣した。
不完全とはいえ、それは明らかに——常識の外にある。
だが。
「…………っ」
零の身体が傾いた、高度が落ちる。
まだ、制御が追いついていない。
「危なっ——!」
シエラが咄嗟に腕を伸ばした。
零の腰を掴む翼が大きく羽ばたき、二人分の体重を支える。
「……っと。大丈夫?」
「……ああ」
至近距離。
シエラの顔が近い。
空色の髪が風に舞い、零の頬を掠めた。
薄青い瞳が、真っ直ぐに金色の瞳を見つめている。
「——あのさ」
シエラは零を支えたまま、ゆっくりと地上へ降りていく。
足が地面につく。
だが——。
腰に回された手が離れるまで、ほんの一瞬だけ間があった。
「迎撃のタイミング合わせだけで一時間終わると思ってたのに」
シエラが苦笑する。
「まさか飛ばれるとは思わないじゃん」
「俺も、飛べるとは思わなかった」
「まあ、普通は飛べないからね!?」
思わず声を上げ。
それから——笑った。
「ほんっと……」
シエラの青い瞳が零を見る。
そこには驚きだけではない。
別の——熱のようなものが、僅かに灯っていた。
「ルシアが独占したがる気持ち、ちょっと分かったかも」
「何がだ?」
「こっちのハーナシ」
さらりと流す。
冗談めいた口調。
けれど、青い瞳は、零から逸れなかった。
「——ねぇ、君」
「ん?」
「明日さ。もう少し長く飛んでみない?」
翼を畳む。
「私が隣で教えるから」
「分かった」
「即答なんだ」
「飛べるなら、その方が戦い方も増える」
「あはは。そういうところ、ほんと戦闘脳だよね」
シエラが肩をすくめる。
「まあ、今日はここまで。制御できてないのに無理したら、本当に落ちるよ」
空色の髪を耳にかける。
風が止み、訓練場に静けさが戻った。
「——でも」
シエラが零を見る。
「ほんと、規格外だね」
声が柔らかかった。
からかいではない。
純粋な——感嘆。
「竜族の飛行を人間が真似するなんて、聞いたことない。百年生きてて初めて見た」
零の肩を軽く叩く。
ぽん、と一度。
その手が——ほんの少しだけ留まった。
「明日、楽しみにしてる」
「…………」
「——ちゃんと私だけの空に来なよ」
意味深に笑い、シエラが歩き出す。
「次はレイラでしょ。頑張んなー」
背中越しに手を振る。
「あの子の授業、油断すると精神持ってかれるから」
そして、去り際。
一度だけ振り返った。
「……あと」
「?」
「腰、掴んだ時ごめんね」
一拍。
「でもまあ——落ちるよりマシでしょ」
ぺろりと舌を出して笑い。
シエラは食堂の方へ消えていった。




