第二十環 「先生と呼ばれた魔女」
一時間が経った。
「…………」
零は訓練場の中央に立っていた。
右手を前へ。
意識を集中する。
もう何度繰り返したか分からない。
集める。
逃がさない。
一点へ。
そして——。
圧縮。
掌の中で、魔力が渦を巻く。
「……まだだ」
一度目の限界。
そこから。
さらに——押し込む。
ぎしり。
目には見えない何かが、軋むような感覚。
だが。
もう迷わない。
先ほどルシアに教えられた魔力の流れを、自分だけで再現する。
外へ逃げようとする魔力を戻す。
散らさない。
漏らさない。
中心へ。
中心へ。
さらに——。
「…………」
ルシアは少し離れた場所から、その様子を黙って見ていた。
もう口は出さない。
最初は何度も失敗した。
圧縮しすぎて魔力が霧散した。
逆に力を込めすぎて暴発しかけた。
一度など、ルシアが強制的に魔力を消さなければ右手を火傷していただろう。
それでも。
零は止めなかった。
失敗するたびに原因を聞き。
一度教えれば——次には修正する。
そして。
今。
「…………!」
ルシアの真紅の瞳が僅かに見開かれた。
零の掌。
そこに——。
小さな火球が生まれる。
先ほどまでとは違う。
大きくない。
むしろ。
最初に零が放った火球より、遥かに小さい。
だが。
その中心。
炎が白に近い金色へ変わるほど——魔力が凝縮されていた。
「…………」
ルシアの表情が消える。
零は火球を見つめる。
そして。
「……行け」
指を弾いた。
直後。
火球が消える。
いや。
速すぎて——そう見えただけだった。
轟ッッッ——!!
爆音。
標的へ着弾。
凝縮された炎が、一瞬だけ膨張し——。
爆ぜた。
熱波が訓練場を駆け抜ける。
零の黒髪。
ルシアの真紅のツインテール。
二人の髪が、爆風に大きく揺れた。
やがて。
煙が晴れる。
「…………」
標的となっていた石壁。
そこには。
大きな着弾痕が刻まれていた。
先ほどルシアが放った火球には及ばない。
それでも——。
明らかに。
最初の零の火球とは、別物だった。
「……どうだ?」
零が振り返る。
「…………」
返事がない。
「ルシア?」
「…………は?」
ようやく。
声が出た。
「何だよ、その反応」
「ちょっと待って」
ルシアが標的へ歩いていく。
着弾痕を見る。
魔力の残滓を確認する。
さらに。
零の右手を見る。
「…………」
もう一度。
着弾痕。
「……嘘でしょ」
「失敗?」
「逆よ!」
ルシアが勢いよく振り返った。
「なんでできてんのよ!?」
「教えたのお前だろ」
「そういう意味じゃない!」
ルシアは標的を指差す。
「あんた、これ!」
「火球」
「見れば分かるわよ!」
「じゃあ何だよ」
「圧縮率!」
ルシアが零へ詰め寄る。
「私が最初に見せた圧縮に、もう九割近く届いてる!」
「九割?」
「そうよ!」
「じゃあ、あと一割か」
「そこじゃない!!」
訓練場に声が響く。
「一時間よ!?」
「……ああ」
「たった一時間!」
「時計ないから分かんなかった」
「そういう話してない!」
ルシアが頭を抱える。
「私が……」
言いかけて。
止まる。
「…………」
「?」
「……私が、この感覚を掴むまで」
小さく。
「三年かかったのよ」
「…………」
今度は。
零が黙った。
「三年?」
「そう」
ルシアは唇を尖らせる。
「もちろん、子供の頃の話よ」
少しだけ。
言い訳するように付け加えた。
「教えてくれる人もいなかったし、自分で理論から組み立てた。だから条件が違う」
「それでも三年か」
「……そうよ」
零は自分の右手を見る。
そこにはもう。
火球はない。
「じゃあ」
顔を上げる。
「お前の教え方が、超絶上手かったんじゃね?」
「…………」
ルシアが固まった。
「俺一人だったら、絶対分からなかったし」
「…………」
「現に、一年間人界にいて、こんなもんで」
「…………」
「さっき直接、魔力の流れも教えてくれただろ」
「…………」
「ありがとな、ルシア」
「——っ」
真紅の瞳が見開かれる。
「な、何よ急に!」
「礼言っただけだろ」
「急に素直になるな!」
「理不尽すぎだろ!」
ルシアは顔を逸らした。
帽子の鍔を深く下げる。
「……ほんと」
「?」
「ムカつく」
「またかよ」
「ムカつくわよ」
小さく。
本当に小さく。
ルシアが呟く。
「私が三年かかったこと、一時間で覚えて……」
「…………」
「しかも」
ちらり。
零を見る。
汗で黒髪が額に張りついている。
何十回失敗しても。
一度も「もういい」とは言わなかった。
できないなら、できるまでやる。
教えられたことを考え。試し。失敗して——
また試す。
その繰り返し。
才能だけじゃない。
この男は——努力することを、やめなかった。
「…………」
どくん。
胸の奥が。
一度、大きく脈打った。
「……?」
ルシアが自分の胸元へ手を当てる。
何だ。
これは。
さっき。
顔が近づいた時とは違う。
恥ずかしいわけじゃない。
悔しい。
それもある。
自分が三年かけたものを。
一時間で。
当然、悔しい。
なのに。
それ以上に——。
楽しい。
そう思ってしまった。
自分が教えたことを。
目の前の男が、信じられない速度で吸収していく。
だったら。
次は何を教えよう。
これはできるだろうか。
どこまで来るだろう。
いつか。
自分のところまで——。
「……ふふ」
「?」
零が眉を上げた。
「何笑ってんだ?」
「別に」
ルシアは帽子の鍔を持ち上げる。
先ほどまでの戸惑いは——もうなかった。
代わりに。
真紅の瞳が。
挑戦的に輝いている。
「あんたさ」
「ん?」
「——化け物よ、ほんと」
「褒めてる?」
「最大級にね」
ルシアは笑った。
それは。
零がこれまで見てきた、ツンと澄ました笑みでも。
照れ隠しでもない。
魔導師として。
一人の才能を認めた——純粋な笑顔だった。
「でも」
人差し指が零へ向けられる。
「勘違いしないで」
「何を?」
「九割って言ったでしょ」
「ああ」
「これはあくまで、止まった状態で一つの魔法を圧縮する技術だけ」
「…………」
「私はそれを一瞬でやる」
ルシアの周囲に。
五つ。
火球が浮かび上がった。
「……!」
全てが。
先ほど見せたものと同等の密度。
「走りながらでも」
一つ。
「戦いながらでも」
二つ。
「別の魔法を使いながらでも」
三つ。
次々と。
圧縮された火球が形成される。
「同時に何個でも」
五つの火球が。
一斉に消えた。
「…………」
零は思わず笑った。
「なるほどな」
「何?」
「まだまだ遠い」
「当然」
ルシアも笑う。
「私を誰だと思ってるの?」
「魔界最強の魔導師」
「——よろしい」
満足そうに頷く。
そして。
「午後もやるわよ」
「マジか」
「当たり前でしょ」
「一時間ぶっ通しだったんだけど」
「昼食は食べさせてあげる」
「そこは優しいんだな」
「倒れられたら困るからよ!」
「はーいはい」
「その返事やめろって言ってるでしょ!」
ルシアが怒鳴る。
だが。
その顔は——どこか楽しそうだった。
零もまた、小さく笑う。
「分かったよ、先生」
その一言で。
ルシアの動きが、完全に止まった。
「…………」
零が首を傾げる。
「何だよ」
「い、今……何て言った?」
「先生」
「…………っ!」
ぼん、と音でも鳴りそうな勢いで。
ルシアの顔が、耳の先まで真っ赤に染まった。
「な、何で急に先生なのよ!」
「何でって」
零は不思議そうに答える。
「魔法教えてもらってるんだから、先生だろ」
「そ、それは……!」
「違うのか?」
「違わないけど!」
「じゃあ先生じゃん」
「そういう問題じゃないの!」
「どういう問題だよ」
「知らないわよ!」
完全に混乱している。
魔界最強の魔導師。
魔王直属四座の一角。
先ほどまで圧倒的な魔法技術を見せつけていた少女が——。
たった一言で。
見る影もなく崩れていた。
「…………」
ルシアは両手で魔女帽子の鍔を掴む。
そのまま、ぐっと下へ引き下げた。
顔を隠すように。
だが。
耳どころか、首筋まで赤くなっているため意味がない。
「せ、先生って……」
小さな声。
「私はただ教えてるだけで……別に、そんな……」
「それを先生って言うんじゃないのか?」
「だから!」
ルシアが顔を上げる。
「そういうこと急に言うからっ……!」
「…………」
「…………」
沈黙。
「……俺、なんか悪いこと言った?」
「言ってない!」
「じゃあいいだろ」
「よくない!」
「どっちだよ」
「うるさい!ばか!」
ルシアはくるりと背を向けた。
黒いマントの裾が大きく揺れる。
「…………」
肩が僅かに震えている。
怒っている——わけではない。
一度。
深呼吸。
二度。
三度。
しばらくして。
ルシアはゆっくりと振り返った。
頬にはまだ赤みが残っている。
だが。
真紅の瞳には、先ほどまでの真っ直ぐな光が戻っていた。
「……ふん」
ルシアが腕を組む。
そして。
唇の端が——ほんの少しだけ持ち上がった。
「いいわよ」
「?」
「先生って呼びたいなら、呼びなさい」
「急に偉そうだな」
「先生なんだから当然でしょ!」
「もう気に入ってんじゃねぇか」
「——っ!」
一瞬また崩れかける。
しかし。
何とか踏みとどまった。
ルシアは誤魔化すように、人差し指を零へ突きつける。
「その代わり!」
「おう」
「私の教え子が、いつまでも弱いままなんて許さないわ」
「…………」
「午後はもっとしごくから」
挑戦的な笑み。
「覚悟しなさい、零」
零も笑う。
「望むところだよ、先生」
「——っ!」
今度こそ。
ルシアの頬が再び赤く染まった。
「……連呼するな!」
「何でだよ」
「恥ずかしいの!」
「自分で呼べって言ったじゃん」
「うるさい!」
訓練場に、ルシアの声が響いた。
だが。
今朝とは違う。
怒鳴りながらも。
どこか嬉しそうだった。
「……ほら」
ルシアが先に歩き出す。
「お昼、食堂行くわよ」
「腹減ったな」
「午後も続けるんだから、ちゃんと食べなさい」
「はいはい、先生」
「だから連呼するなって言ってるでしょ!」
零は笑いながら、その背中を追った。
魔法なんて。
復讐のために強くなる手段。
それだけのはずだった。
けれど。
誰かと競い。
教わり。
追いつこうとすることが。
少しだけ——楽しい。
そう思えた。
そして。
訓練場を出る直前。
ルシアが、ほんの一瞬だけ振り返る。
零は少し後ろを歩いている。
聞こえていない。
そう思ったのだろう。
「……先生、か」
小さな声。
自分だけに聞かせるように。
「…………」
口元が僅かに緩む。
「——悪くないかも」
すぐに前を向く。
その足取りは。
今朝よりも、ほんの少しだけ軽かった。
真紅のツインテールが。
それに合わせるように、楽しげに揺れていた。
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