第十八環 「魔界最強の魔導士」
——朝。
零の意識が浮上したのは、扉を叩く音だった。
コンコンコン——コンコンコンコン。
規則正しい。
だが、容赦がない。
「——起きなさい!」
扉の向こうから、聞き慣れた声が響く。
「朝よ! 五分以内に出てこなかったら、扉ごと焼くわよ!」
「……なんだ、朝から物騒だな」
零は寝台の上で目を開けた。
窓の外には、魔界特有の薄暗い朝。
「五分って言ってたな……」
もう一度横になろうかと一瞬考えたが。
——扉ごと焼くわよ!
「……やめとこ」
零は身体を起こした。
手早く顔を洗い、衣服を整える。
そして扉を開けると——。
「遅い」
「まだ五分経ってねぇだろ」
廊下には、ルシアが立っていた。
昨夜の華やかなドレス姿とは違う。
いつもの黒い魔導服。
黒いマント。
頭には大きな魔女帽子。
真紅のツインテールが、魔界の淡い朝日に照らされている。
完全に——戦闘用の装いだった。
「……ふん」
ルシアは腕を組み、零を頭の先から足元まで確認する。
「寝坊しなかったのは偉いわ」
「子供扱いすんなよ」
「昨日あれだけ飲んだ奴がちゃんと起きたんだから、褒めてあげてるのよ」
「俺はアルコール効かないし。それに、お前も飲んでただろ」
「私は節度を知ってるもの」
「シエラに聞かせてやりたいな」
「本人が一番聞くべきよ」
ルシアは小さくため息を吐き、そのまま歩き出した。
「食堂で軽く食べたら、すぐ訓練場に行くわよ」
「今日も鍛錬か」
「昨日言ったでしょ」
肩越しに振り返る。
真紅の瞳が、零を捉えた。
「今日から——本格的に魔法鍛錬を始めるわ」
「…………」
その言葉に。
零の眠気が、僅かに消えた。
「魔法、か」
「そう」
ルシアは前を向く。
「昨日までみたいなお試しじゃないから、覚悟しなさい」
零はその背中を追い、廊下を歩き始めた。
◆
食堂。
朝食は、昨夜の祝勝会とは比べものにならないほど簡素だった。
黒パン。
魔獣の肉と野菜を煮込んだスープ。
そして数種類の果物。
零が黒パンをスープへ浸している向かいで、ルシアは紅茶を口に運んでいた。
「いい?」
カップを置く。
「昨日の闘技場でのあんたを見て、改めて分かったことがある」
「何だよ」
「あんたの戦い方」
ルシアの人差し指が、零を指す。
「完全に近接寄りね」
「まあ、そうだな」
「剣で間合いを詰めて、夢幻抱擁で身体能力を底上げして、そのまま押し切る」
昨日の戦いを思い返すように続ける。
「ガルドもヴェルクもバルザスも、結局それで倒した」
「勝てたならいいだろ」
「今はね」
即答だった。
零が顔を上げる。
ルシアの表情は、既に先ほどまでの軽いものではなかった。
「昨日戦った相手なら、それで通用した」
「…………」
「でも、その先は違う」
ルシアは紅茶を一口。
そして。
「今のままじゃ——いずれ必ず止まる」
「……誰に」
「私たちくらいの相手」
真紅の瞳が零を射抜く。
「本気になった、四座級」
空気が僅かに変わった。
「例えばシエラ」
ルシアが指を一本立てる。
「あんたが剣の間合いに入る前に、空から一方的に潰される」
二本目。
「レイラなら、そもそも本物がどこにいるのか分からないまま闇魔術に嵌められる」
三本目。
「クオン相手に真正面から殴り合えば……今のあんたじゃ、先に身体が壊れる」
「お前は?」
零が尋ねた。
「私?」
「四座級の話なら、お前もだろ」
「…………」
ルシアの口元が持ち上がる。
「私の場合は——」
紅茶のカップを置く。
「前はびっくりして遅れをとったけど、まあ、本気になれば近づく前に消し炭ね」
「ほんとかよ、物騒だな」
「事実よ」
「自信満々だな」
「当然でしょ?」
ルシアが胸を張る。
「私、魔界最強の魔導師なんだから」
「自称?」
「殺すわよ」
「怖ぇよ」
ルシアはこほん、と咳払いする。
「とにかく」
再び真面目な表情へ戻った。
「近接戦そのものを捨てろって言ってるわけじゃない」
「じゃあ?」
「増やすのよ」
「何を」
「あんたが取れる選択肢」
ルシアが指先を立てる。
小さな炎が灯った。
「遠距離攻撃」
炎が消える。
次に、小さな風の渦。
「牽制」
さらに。
薄い魔力の膜が、指先を覆う。
「防御」
そして最後に。
零へ真っ直ぐ指を向けた。
「身体強化」
「…………」
「剣しかない奴と、剣も魔法も使える奴」
ルシアが笑う。
「どっちが面倒だと思う?」
「後者だな」
「でしょ」
零はスープを一口飲みながら考える。
「でも俺、無限抱擁頼みで、魔法、初級くらいしか使えないぞ」
「知ってる」
即答。
「だから教えるの」
「簡単に言うな」
「簡単よ」
「本当か?」
「私にとっては」
「参考にならないな」
「失礼ね!」
ルシアがむっとする。
だがすぐに。
「まあ……あんたの場合、才能自体はあるから」
「そうなのか?」
「ある」
今度は迷わなかった。
「あんた、基礎魔力量はかなり多い」
「へぇ」
「夢幻抱擁との相性も異常なくらいいい」
ルシアの視線が、零の腕へ向けられる。
そこに宿る神装——夢幻抱擁。
「問題なのは——」
「制御?」
「そう」
ルシアが頷く。
「それと応用」
真紅の瞳が細められる。
「あんた、魔力を持ってるのに使い方が雑なのよ」
「昨日勝ったけどな」
「だから、その成功体験に頼るなって言ってるの」
「厳しいな」
「当然」
ルシアは紅茶を飲み干し、席を立つ。
「基礎を舐める奴は、どこかで必ず死ぬ」
その言葉だけは。
冗談ではなかった。
零も立ち上がる。
「だから今日は」
ルシアが魔女帽子を整える。
「魔力操作の基礎から、全部やり直すわよ」
「全部って……」
「全部」
「長くなりそうだな」
「安心しなさい」
「何を?」
「魔界最強の魔導師が、直々に教えてあげるんだから」
ルシアはふん、と鼻を鳴らす。
「光栄に思いなさい」
「自分で言うか」
「事実だもの」
「はいはい、先生」
「……先生?」
ルシアの足が止まった。
「何だよ」
「別に」
顔を逸らす。
「……悪くない響きね」
「調子乗んなよ」
「何よ!」
零は小さく笑いながら、食堂を出た。
◆
「…………うぅ」
食堂を出た直後。
廊下の壁際に——死にかけた竜がいた。
「……何してんだ、お前」
シエラだった。
壁へ片手をつき。
もう片方の手で頭を押さえている。
空色の髪は寝癖で乱れ。
顔色も悪い。
昨日までの元気は、見る影もない。
「……ごきげんよ〜」
「全然ご機嫌良いって顔してないぞ」
「頭痛ぁ〜い……」
「だろうな」
「昨日……何杯飲んだっけ……」
「知らねぇよ」
「零と飲み比べ……した?」
「しようとしてルシアに止められた」
「そっか……」
シエラは心底残念そうに呟く。
「じゃあ今日やる?」
「やらねぇよ」
「えー……」
「飲むこと考える前に水飲め」
「水……」
「ほら見なさい!」
ルシアの声が廊下へ響く。
「……っ!」
シエラが頭を抱えた。
「声……!」
「だから昨日言ったでしょ! 飲みすぎだって!」
「ルシア……声小さくして……頭割れる……」
「自業自得よ!」
「死ぬぅ……」
「死なない!」
「優しく、して……?」
「昨日あれだけ介抱してあげたでしょ!」
「覚えてなぁ〜い……」
「でしょうね!!」
零は思わず吹き出した。
「……笑うなぁ」
「いや、昨日との落差が」
「君もいつかこうなるから……」
「ならねぇよ」
「なる……竜族の酒を舐めるな……」
「お前が舐めすぎたんだろ」
「うぅ〜、上手いこと言わないで……頭に響く……」
シエラはふらふらと食堂へ入っていく。
ルシアがその背中を見送り。
深いため息。
「……本当に馬鹿」
「でも昨日、毛布掛けてやってたじゃん」
「——っ」
ルシアが零を見る。
「見てたの!?」
「見えるだろ」
「別に! 風邪引かれたら面倒だからよ!」
「はいはい」
「何よ、その顔!」
「優しいなと思って」
「——っ!」
ルシアの顔が赤くなる。
「早く行くわよ!!」
「誤魔化した?」
「うるさい!」
早足で歩き出す。
零は笑いながら、その後を追った。




