第十六環 「魔王のお墨付き」
自室へ戻った零は、クローゼットを開いた。
「…………」
中には、魔王城で用意された衣服が何着も掛けられている。
黒を基調としたものが多く、どれも人界では見たことのないデザインだ。
「……どれ着りゃいいんだ」
祝勝会に相応しい服がどれなのか、まるで見当がつかない。
人界にいた頃は、そもそも、格式ある宴に参加した経験すらない。
ましてや——魔界の正装など知るはずもなかった。
適当に一着取る。
「……これでいいか?」
数秒眺める。
先ほどのルシアの言葉が脳裏をよぎった。
——変な格好で来ないでよ。
「…………」
戻した。
もう一着。
「……こっち?」
やっぱり分からない。
「面倒くさ……」
零は頭を掻いた。
こういうことに詳しそうなのは——。
「……ルシアか」
◆
コンコン。
零が扉を叩く。
数秒の沈黙。
そして——。
勢いよく扉が開いた。
「何よ」
「……あ」
「何」
「いや」
零は思わずルシアを見る。
着替えの途中だったらしく、普段の魔導服ではない。
何より——。
いつも二つに結ばれている真紅の髪が、片側だけ解かれていた。
零はそっぽを向き、呟く。
「髪下ろすと、結構印象違うんだな」
「……は?」
「いや、いつもツインテールだから」
「…………」
ルシアが無言で零を見る。
その頬が、じわりと赤くなった。
「それ言うために来たわけ?」
「いや、違うけど……」
「じゃあ何よ!」
零は事情を説明した。
祝勝会に何を着ればいいのか分からない。
すると——。
ルシアの表情が一変した。
「——はぁ!?」
ルシアの大声が零の耳をつんざく。
「うるさっ」
「あんた、祝勝会まであと二時間しかないのに、衣装も決めてないわけ!?」
「だから聞きに来たんだろ」
「普通もっと早く準備するでしょ!」
「知らねぇよ、魔界の祝勝会なんて初めてなんだから」
「それは……そうだけど」
ルシアは額を押さえた。
「はぁ……もう」
そして。
がしっ。
零の腕を掴む。
「来なさい」
「どこに?」
「あんたの部屋よ!」
「いや、それは分かるけど」
「私が選んであげる。感謝しなさいよ!」
そのまま零を引っ張って歩き出した。
「お前、まだ髪——」
「見るな!」
「見えるだろ!」
◆
零の自室。
ルシアはクローゼットの前に立つと、次々に服を取り出し始めた。
「これは駄目。普段着」
ぽい。
「これも地味」
ぽい。
「これ……誰が入れたのよ。色が全然合わないじゃない」
ぽい。
「おい。俺のベッドに投げんな」
「うるさい。今集中してるの」
真紅の瞳は真剣そのものだった。
その手際には、魔法の鍛錬をしている時と同じくらい迷いがない。
数着を確認したところで——。
「……あ」
ルシアの手が止まった。
一着の上衣を引き出す。
「これね」
黒を基調としたハイカラーの上衣。
金糸による細かな刺繍が施され、袖口と襟元には深紅のライン。
派手すぎない。
しかし、明らかに普段着とは違う。
合わせるのは黒のスラックスと、金の留め具が付いたベルト。
金具と衣装とで統一感があり、なんとなくマナーも守っていそうな印象だった。
ルシアはそれらを零の身体に重ね、少し離れて眺める。
「…………」
「どうした?」
「黙って」
「はい」
ルシアの視線が、零の黒髪から金色の瞳へ移る。
そして小さく頷いた。
「やっぱり、これ」
「なんで?」
「あんた、黒髪に金の瞳でしょ」
上衣を零へ押しつける。
「だから黒と金。赤はアクセント」
「赤?」
零が袖口を見る。
「——魔王様の色よ」
ルシアは当然のように答えた。
「魔王様の直属なんだから、魔王様の色を入れるのは当然でしょ」
「なるほど」
「それに——」
ルシアが言葉を止める。
ちらり。
零を見る。
「……似合うと思ったから」
「ん?」
「似合うと思ったから選んだって言ったの!」
なぜか怒られた。
「そ、そうか」
「それだけだから。深い意味とかないから」
「分かったって」
「本当に分かってる?」
「何をだよ」
「……もういい!」
ルシアは顔を逸らした。
「あと髪」
「髪?」
「少し整えなさい」
ルシアが零の頭を見る。
「まさか寝癖じゃないでしょうね」
「寝癖ではない」
「本当に?」
「多分」
「多分って何よ……」
呆れたようにため息を吐く。
それから改めて——頭のてっぺんから爪先まで、零を眺めた。
「……まあ」
「?」
「顔は悪くないんだから。ちゃんとすれば見られるわよ」
「へぇ」
零の口元が緩んだ。
それを見逃さなかった。
「——何にやにやしてんのよ!」
「いや?」
「何よ!」
「褒められたなと思って」
「褒めてない!」
「じゃあ貶したのか?」
「そういう意味でもない!」
「どっちだよ」
「うるさい!」
ルシアの頬が、見る見る赤くなっていく。
零は思わず笑った。
「さっさと着替えなさい!」
「分かったよ」
「私は出てるから!」
ルシアが勢いよく扉へ向かう。
ドアノブへ手をかける。
しかし。
一度だけ止まった。
「……あ」
「?」
ルシアは振り返らない。
数秒の沈黙。
そして——。
「……今日は」
声が少しだけ小さくなる。
「よくやったわよ」
「…………」
「闘技場」
それだけ言って、扉が閉まった。
零はしばらく閉じた扉を見つめる。
そして。
「……素直じゃないな」
小さく笑った。
すると、扉の向こうから——。
「聞こえてるわよ!!」
「地獄耳かよ!」
◆
それから約二時間後。
零はルシアが選んだ衣装に袖を通していた。
鏡の前に立つ。
黒のハイカラー。
控えめに施された金糸の刺繍。
襟元と袖口を走る深紅のライン。
「……悪くない」
いや。
自分では絶対に選ばなかっただろうが——かなりいい。
ルシアの選択は的確だった。
黒髪と金色の瞳にも、不思議なほど自然に馴染んでいる。
零はルシアの使っていた魔法を思い出し、見よう見まねで髪を整える。
「こんなもんか」
零は部屋を出た。
◆
魔王城・中央棟大広間。
普段はほとんど使われることのない大広間が、今夜は祝勝会のために開放されていた。
巨大な両開きの扉を抜けると、まず目に入ったのは宙に浮かぶ無数の灯火。
魔法によって生み出された淡い光が、高い天井から黒大理石の床へ降り注いでいる。
長いテーブルには料理と酒が所狭しと並び、既に魔王軍の幹部たちが集まっていた。
肉料理。
魚料理。
見たこともない果実。
そして、人界のものとは色も香りも違う酒。
「……すごいな」
零が大広間へ足を踏み入れた——その瞬間。
周囲の視線が集まった。
「…………」
闘技場の時とは違う意味で居心地が悪い。
すると。
「おっ」
聞き慣れた声。
「いいじゃん〜。君、衣装似合ってるよ〜?」
シエラだった。
零は一瞬、誰かと思った。
普段は動きやすさを優先した格好ばかりしている彼女が、今夜は黒と青を基調としたドレスに身を包んでいる。
空色の髪もサラサラになっており、いつもより随分と大人びて見えた。
ただし。
「もう飲んでんのかよ」
片手には既に酒杯。
「祝勝会だよ?」
「まだ始まってねぇだろ」
「細かいこと気にしな〜いの」
「お前、本当に自由だな」
「あははっ!」
その横から。
「零」
「ん?」
クオンだった。
黒と金を基調とした鬼族の正装。
普段の装束より装飾が多く、小柄な身体に意外なほど似合っている。
だが——。
「肉がある」
「…………」
「早く食え」
既に両手には料理が山盛りになった皿。
「お前、厨房見に行ってただろ」
「確認した」
「何を」
「肉があるか」
「……あったな」
「あった」
クオンが満足そうに頷く。
普段ほとんど表情の変わらないクオンが、心なしか嬉しそうだった。
「——遅い」
別の方向から声。
振り返る。
そして。
零は一瞬だけ目を止めた。
ルシア。
黒を基調としたドレスに、深紅のリボン。
真紅の髪はいつものツインテールに戻っていたが、普段とは違う十字架の髪飾りが添えられている。
いつもの魔導服とは、まるで印象が違った。
「…………」
「何よ」
「いや」
「だから何よ」
「お前もそういう格好するんだな」
「はぁ!?」
「似合ってる」
「——っ」
ルシアが固まった。
ほんの一瞬。
そして。
「……そ、そう」
顔を逸らす。
「まあ……当然でしょ」
声が妙に小さい。
だが、すぐに零の衣装へ視線を向けた。
頭から爪先まで確認する。
「…………」
小さく頷く。
「……ふん。まあ、及第点ね」
「選んだのお前だろ」
「着こなしの話よ!」
「はいはい、どーも」
「何よ、その言い方!」
そのやり取りを。
壁際のソファから楽しそうに眺めている者がいた。
「へぇ——」
「……またお前か」
レイラ。
黒いロングドレス。
耳元では、緑色の宝石が揺れている。
くすんだ金髪が褐色の肩へ流れ、先ほど廊下で会った時とはまた違った妖艶な雰囲気を纏っていた。
手にしているのは——紅茶ではなく、ワイングラス。
「なかなか様になってるじゃない」
レイラの視線が、零の服をなぞる。
「誰が選んだの?」
「…………」
赤いラインを見る。
次にルシアを見る。
そして——にやり。
「ああ。そゆこと。聞かなくても分かるか」
「……何よ」
「赤を差し色で入れるのが、ルシアっぽい」
「うるさい」
「ふふっ」
「笑うな!」
「何も言ってないよ?」
「顔が言ってんのよ!」
レイラが楽しそうに笑う。
その時——。
大広間の空気が変わった。
ざわめきが消える。
一人。
また一人と、広間の奥へ視線を向けていく。
零もそちらを見た。
そして——。
一段高い場所に設えられた席。
そこに。
白銀の髪が揺れた。
リリスが立ち上がる。
「…………」
今夜の魔王は、普段とはまるで違っていた。
黒と深紅を基調としたドレス。
肩を露出させた大胆なデザインでありながら、纏う雰囲気には一切の下品さがない。
首元には深紅の宝石。
長い白銀の髪が背中を流れ、灯火を受けて淡く輝いている。
そして。
何より目を引くのは——深紅の瞳。
ただ立ち上がった。
それだけで。
大広間にいる全員の視線を奪った。
——魔王。
その呼び名が、これほど似合う者はいない。
「……すごいな」
零は無意識に呟いていた。
「何が?」
隣から声がした。
レイラだ。
「……なんでもねぇよ」
「ふぅん?」
レイラが意味ありげに笑う。
「見るな」
「あはっ」
そのやり取りを無視するように、リリスが杯を手に取った。
そして——掲げる。
「——今日」
静かな声。
しかし。
広い大広間の隅々まで、はっきりと届いた。
「天津零が、城下の闘技場で三連勝した」
深紅の瞳が零を捉える。
「最後はA級闘士バルザスを一撃」
広間の一部から、どよめきが起こる。
今日の戦いを直接見ていなかった者たちだろう。
リリスは構わず続けた。
「人間であることを理由に、こいつを認めない者がいることは知ってる」
空気が少しだけ張り詰める。
「別に、それをやめろとは言わない」
零がリリスを見る。
「嫌うのも、疑うのも勝手よ」
リリスの唇が、不敵に吊り上がる。
「でも——」
杯が僅かに持ち上がる。
「実力まで否定するなら、今日の闘技場の試合を見てから言いなさい」
「…………」
「少なくとも、今日のこいつは——」
深紅の瞳と、金色の瞳が交わった。
「私の直属として、恥ずかしくない戦いをしたわ」
ほんの少しだけ。
リリスが笑う。
「よくやったわね、零」
その言葉に。
一瞬だけ——零は妹の声を思い出した。
——兄ちゃん、頑張ったじゃん。
だが。
今度は、重ならなかった。
聞こえたのは。
目の前に立つ魔王——リリスの声だけだった。
零は小さく笑う。
「ああ」
リリスもそれ以上は何も言わなかった。
杯を高く掲げる。
「——乾杯」
次の瞬間。
無数の杯が一斉に掲げられた。
「乾杯!!」
歓声が、大広間を震わせる。
酒杯が鳴り。
料理が運ばれ。
音楽が始まる。
魔王城の夜は、普段とは違う熱気に包まれていった。
——天津零の祝勝会が、始まった。
◆
祝勝会が始まり、大広間のあちこちで杯の音と笑い声が響き始める。
零は杯を手に取ると、ふと広間の奥へ視線を向けた。
一段高く設けられた席。
そこには、先ほど乾杯の音頭を取ったリリスが腰掛けている。
「…………」
零は少しだけ考え——そのまま歩き出した。
人混みを縫い、大広間の奥へ。
近づくにつれ、周囲の魔族たちが零の存在に気づく。
「おい……」
「まさか——」
小さなざわめき。
それでも零は足を止めない。
一段高い席へ上がり。
そして——。
当然のように、リリスの隣の空いている席へ腰を下ろした。
その瞬間。
周囲の空気が僅かに揺れた。
——魔王の隣に座った。
——あの人間が。
零自身は気づいているのかいないのか、特に気にした様子はない。
そして。
当のリリスも——止めなかった。
「——へぇ」
リリスが横目で零を見る。
深紅の瞳が、面白そうに細められた。
「自分から来るんだ」
「空いてたからな」
「そういう問題じゃないんだけど」
唇の端が持ち上がる。
「度胸あるじゃない。普通、魔王の隣に自分から座ろうなんて奴いないわよ」
「そうなのか?」
「そうなのよ」
「じゃあ今知った」
「……ほんと、怖いもの知らずね」
呆れたように言いながらも、リリスは席を移れとは言わなかった。
むしろ身体を少し零の方へ向ける。
白銀の髪が肩からさらりと流れた。
今夜の黒と深紅のドレスが、魔法の灯火を淡く反射している。
そして——。
リリスが、にやりと笑った。
「で?」
「何が」
「また手でも握る?」
「…………」
零が無言になる。
「あら」
リリスの笑みが深くなる。
「今度はやらないの?」
「やらないよ」
「さっきはあんな大胆だったのに」
「あれは……無意識だったんだよ」
「ふぅん?」
明らかに楽しんでいる。
零は小さくため息をついた。
その様子を——。
少し離れた席から、真っ赤な顔で見ている者がいた。
「——あいつ……!」
ルシアだった。
「魔王様の隣に……! ちょっと、何堂々と座ってんのよ!」
今にも立ち上がりそうになる。
だが。
「あはは。いいじゃん、いいじゃん」
隣のシエラがルシアの肩を掴んだ。
「離しなさい!」
「まあまあ。見てなって」
「何を見るのよ!」
「面白くなりそうじゃん」
そう言いながら、シエラはもう片方の手で酒杯を煽る。
「何が面白いのよ!」
そのさらに向こう。
壁際のソファでは——。
レイラが緑色の瞳を細めていた。
「……ふふっ」
昼間、自分が零へ投げかけた問いを思い出しているのか。
口元には、楽しげな笑みが浮かんでいる。
一方。
何も知らないクオンは——。
「……肉」
黙々と食事を続けていた。
◆
「ところでさ」
リリスが零の手元を見る。
「飲んでないじゃない」
「これ、何の酒なんだ?」
「魔界の蒸留酒。人界の酒より少し強いわよ」
リリスは近くに置かれていた瓶を取り上げた。
「飲めるよね?」
「前見てただろ。飲める」
「あら、そう」
リリスが面白そうに笑う。
「じゃあ遠慮はいらないわね」
瓶を傾ける。
深い紫色の酒が、零の杯へ静かに注がれていく。
魔法の灯火を受け、宝石のように揺れた。
「色、かなりすごいな」
「見た目ほど変な味じゃないわよ」
「その言い方、逆に不安になるんだけど」
「ほら」
リリスは自分の杯を持ち上げた。
そして。
こつん。
零の杯へ軽く触れさせる。
「——お疲れ様」
「…………」
零がリリスを見る。
先ほど。
広間全体へ向けて告げた「よくやった」とは違う。
魔王として。
直属の戦士を称えた言葉ではない。
ただ静かに。
隣にいる零だけへ向けられた労いだった。
「……ありがとな」
「ん」
短く返し、リリスは自分の杯へ口をつける。
零も紫色の酒を口に含んだ。
「……っ」
喉を焼くような熱が落ちていく。
その後から、果実に似た甘い香りが鼻へ抜けた。
「強っ」
「だから言ったでしょ」
「少しって言っただろ」
「人間基準で言えば少しよ」
「絶対嘘だろ」
「魔王が嘘つくと思う?」
「普通につきそう」
「あら。言うようになったじゃない」
くすり。
リリスが笑う。
零も僅かに口元を緩めた。
しばらく。
二人は大広間を眺めていた。
笑う魔族たち。
酒を飲むシエラ。
何やら怒っているルシア。
大量の肉を食べるクオン。
そして。
こちらを見ながら楽しそうに笑っているレイラ。
「……濃いな」
零が呟く。
「何が?」
「あいつら」
「ああ」
リリスが即答した。
「否定はしないわ」
「お前がまとめてるんだろ?」
「一応ね」
「大変そうだな」
「今更気づいた?」
「五日目だからな」
「そうだったわね」
リリスは杯を回しながら、ふと零を見る。
先ほどまでの冗談めいた表情が、少しだけ消えた。
「ねぇ、天津零」
「ん?」
「今日戦ってみて、どうだった?」
「どうって?」
「自分の力」
零は少し考える。
夢幻抱擁。
魔法。
そして。
まだ完全には理解できていない、自分自身の力。
「……まだ足りない」
答えはすぐに出た。
「今日の相手には勝てた。でも、人界の王を殺すなら——こんなんじゃ足りない」
「そう」
リリスは否定しなかった。
「もっと強くなる」
「でしょうね」
「ならなきゃいけない」
零の金色の瞳が、静かに光る。
その横顔を。
リリスは数秒、何も言わずに見つめていた。
そして。
「あんたは、強くなるわよ」
「……随分言い切るな」
「言い切るわ」
深紅の瞳が、真っ直ぐ金色の瞳を捉える。
「あんたには力がある」
一拍。
「才能もある」
もう一拍。
「それ以上に——負けたままで終われない理由がある」
零は黙って聞いていた。
「そういう奴は、強くなる」
リリスが自分の杯を掲げる。
「あんたはこの先、もっと強くなるわ」
そして。
自信に満ちた笑みを浮かべた。
「——私が保証する」
「…………」
零は、その言葉を聞き。
小さく笑った。
「魔王のお墨付きか」
「光栄に思いなさい」
「はいはい」
「何よ、その返事」
「でも——」
零も杯を持ち上げる。
「悪くないな」
再び。
二つの杯が軽く触れた。
こつん。
今度は歓声もない。
誰も祝福しない。
大広間の喧騒の中で交わされた——ただ二人だけの乾杯。
その時の零はまだ知らなかった。
魔王から告げられたその言葉を。
これから幾度となく、思い出すことになるということを。




