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第十四環 「魔王の手を握った理由」

リリスの指先が頬に触れた——その瞬間。


零の手が、そっとリリスの手を包んだ。


控室の空気が、凍りついた。


リリスの深紅の瞳が、わずかに揺れる。


——握られた。


魔王である自分の手を。


あまりにも自然に。


まるで、そんなことを恐れる理由など最初から存在しないかのように。


一瞬だけ——ほんの一瞬だけ、リリスの表情に驚きが走った。


しかし、それも刹那のこと。


すぐに深紅の瞳が細められ、いつもの余裕を取り戻す。


「…………」


リリスは手を引かなかった。


零の指に包まれた自分の手を一度見下ろし、それからゆっくりと顔を上げる。


深紅と金色。


二つの瞳が、至近距離で交わった。


「——何、急に」


声にはいつもの余裕がある。


けれど——ほんのわずかに、その返事が遅かった。


その背後で。


「——っっっ!?」


ルシアが真っ赤になって固まった。


口をぱくぱくと動かし、何かを言おうとしている。


しかし、言葉が出てこない。


「わーお……」


シエラが目を丸くする。


そして数秒後、面白いものを見つけたと言わんばかりに、にやりと笑った。


「…………?」


クオンだけは首を傾げ、何が起きているのか理解しようとしていた。


そんな三人を横目に、リリスが小さく息を吐く。


「——ま、今日は許してあげる」


そう言って、リリスは手を引き抜く。


その直前。


指先で零の掌を一度だけ軽く押し返し——するりと離れた。


まるで、やられっぱなしで終わるのが気に食わないとでも言うように。


白銀の髪を翻し、リリスが踵を返す。


「今夜、祝勝会やるわよ。全員参加。——逃げたら許さないから」


扉に手をかけたところで、リリスが肩越しに振り返った。


深紅の瞳が、真っ直ぐ零を射抜く。


「あと——」


一拍。


「案外、柔らかいほっぺしてるのね」


唇の端を持ち上げ、挑発するように笑う。


それだけ言い残し——魔王は控室を去っていった。


扉が閉まる。


そして。


残された控室に、数秒間の沈黙が落ちた。


「——ちょっと!!」


沈黙を破ったのは、やはりルシアだった。


「あんた今、何したか分かってんの!? 魔王様の手を……魔王様の手をっ!!」


顔を真っ赤にしながら零へ詰め寄る。


「あはは! ルシア、落ち着きなって」


シエラが腹を抱えて笑う。


「いやー、やるねぇ天津零。魔王様相手にあれやる?」


「……手を握ると、何かあるのか?」


クオンが真顔で尋ねた。


「あるに決まってんでしょバカッ!!」


「……そうなのか」


「そうなのよ!!」


「あははははっ!」


先ほどまで静かだった控室が、一気に騒がしくなる。


その中心で、零は自分の掌へ視線を落とした。


そこにはまだ、ほんのわずかに——リリスの指先の感触が残っているような気がした。


「……なんか、ちょっとだけ似てるんだよ」


零の言葉に、騒がしかった控室が静まった。


「リリスって、俺の妹に」


「——妹……?」


先ほどまで怒っていたルシアの声が止まる。


零は控室の出口——リリスが去っていった方向を見つめたまま、静かに続けた。


「手を握ったのは無意識だったんだ。あの仕草……頬に触れて、ちょっと上から物を言うところ。妹がよくやってた」


零の金色の瞳が、遠い記憶を見るように細められる。


「『兄ちゃん、頑張ったじゃん』って」


もう二度と聞くことのできない声が、脳裏をよぎった。


「別に、見た目が似てるわけじゃないんだけどな。特に、ちょっと偉そうなところとか」


そこで零は苦笑する。


「まあ、リリスは魔王様だから、本当に偉いんだけど」


「…………」


ルシアは何も言わなかった。


二日目に零から聞いた話を思い出していた。


——人界の王に殺された、零の妹。


零がこの世界で戦う理由。


そして、零が人界そのものに背を向けてまで復讐を望む理由。


さっきまでの怒りは、もう消えていた。


「……そっか」


シエラがいつもの軽い調子を少しだけ落とし、零の肩にぽん、と手を置く。


「じゃあ、懐かしくなっちゃったんだ」


「……多分な」


「なら、いいんじゃない?」


シエラはそれ以上踏み込まず、いつものように笑った。


「リリス様も本気で嫌だったら、その場であんたの腕くらい吹っ飛ばしてるって」


「判断基準そこなのかよ」


「魔王様だからね」


「……否定できないな」


零が苦笑する。


わずかに重くなった空気が、それだけで少し軽くなった。


「……妹」


不意にクオンが口を開いた。


零が振り返る。


クオンはいつもと変わらない無表情のまま、真っ直ぐ零を見つめていた。


「お前の妹は、強かったか」


短い問いだった。


けれど、それはクオンなりの——零という人間を知ろうとする言葉だった。


零は少し考えてから、答える。


「……いや。喧嘩は弱かったな」


「そうか」


「でも——」


零の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


「俺より、ずっと強いやつだったよ」


「…………」


クオンは数秒、零を見つめた。


そして。


「……そうか」


もう一度、同じ言葉を口にした。


それだけだった。


けれど零には、最初の「そうか」とは少しだけ意味が違うように聞こえた。


「……ふん」


ルシアが腕を組み直し、ふいっと顔を逸らす。


「事情は分かったけど……今度から気をつけなさいよ」


「何を?」


「だから!魔王様の手を勝手に握ることに決まってるでしょ!」


再びルシアの顔が赤くなる。


「普通なら首が飛ぶんだから!」


「リリス、そんなことで人を殺すのか?」


「たとえ話よ!!」


「あはははっ!」


シエラの笑い声が控室に響いた。


「……飯はまだか」


「空気読みなさいよ、クオン!!」


「腹が減った」


「だから、知らないわよ!」


先ほどまでの静けさが嘘のように、控室にいつもの喧騒が戻っていく。


その中心で、零はもう一度だけ自分の掌を見た。


あの瞬間、妹の姿が重なったのは本当だ。


だから無意識に、手を取った。


それだけのはずだった。


なのに——。


掌に残っているような気がする感触は、記憶の中の妹のものではない。


白く細い指先。


深紅の瞳。


最後に見せた、挑発するような笑み。


「……ほんと、魔王って感じしねぇな」


誰にも聞こえないほど小さく呟き、零は掌を握った。


 ◆


夕刻。


闘技場を後にした零たちは、魔王城への帰路についていた。


夕陽が城下町を赤く染め、石造りの建物が長い影を落としている。


朝、ここを通った時とは——明らかに何かが違っていた。


道を歩く零へ、魔族たちの視線が集まる。


だが、そこに以前までの露骨な敵意や嘲りはない。


「あいつだろ? 今日の闘技場の……」


「秒殺で三人抜いた人間って?」


「あのバルザスまで倒したらしいぞ」


「魔王様が連れてきた精鋭だって噂、本当だったのか……?」


通り過ぎるたび、小さな声が聞こえてくる。


興味。


驚き。


警戒。


そして——わずかな敬意。


人間であるというだけで向けられていた敵意が、完全に消えたわけではない。


それでも。


確実に、何かが変わり始めていた。


「ほらね」


シエラが両手を頭の後ろで組みながら、得意げに笑う。


「実力見せりゃ認めるのよ、魔族って。単純でしょ?」


「自分で言うのかよ」


「だって、事実だもん」


シエラは悪びれる様子もない。


その少し前を歩いていたルシアは、何やら真剣な表情で考え込んでいた。


「……祝勝会、何着ていこうかなー」


「そこ悩むのか?」


「当たり前でしょ! 魔王様の前なのよ? しかも祝勝会なんだから、ちゃんとしないと」


「普段と同じじゃ駄目なのか」


「駄目!」


即答だった。


「……肉は出るのか」


横からクオンが尋ねる。


ルシアのこめかみが引きつった。


「……あんたは、本当にそれしかないの!?」


「……祝勝会でしょ?」


「そうよ!」


「なら、肉は出る」


「知らないわよ!」


「出ないのか?」


「だから知らないって言ってるでしょ!!」


「あはははっ!」


シエラの笑い声が夕暮れの城下町に響く。


その少し後ろを歩きながら、零はそんな三人を眺めていた。


人界を捨て。


魔王のもとへ来て、まだ五日。


それなのに。


この騒がしさが——ほんの少しだけ、心地よく感じ始めている自分がいた。


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