第十一環 「魔界の闘技場」
翌朝。
夜明けとともに。
魔王城に、布告の鐘が鳴り響いた。
——ゴォン。
——ゴォン。
——ゴォン。
重厚な鐘の音が城壁を越え、城下町全体へと広がっていく。
大通り。
酒場。
市場。
路地裏。
城下町の至るところに、一枚の告知が掲げられていた。
羊皮紙の上部に刻まれているのは——魔王の紋章。
その下には、大きな文字でこう記されている。
『本日の武闘会に、魔王直属の戦士——天津零が参戦する』
『魔王リリスの名において、天津零を我が直属の戦士として正式に認め、その所属をここに布告する』
——人間。
その二文字こそ書かれてはいない。
だが、天津零が人間であることは、すでに城下町の一部では噂になっていた。
そして今。
ただの噂だったそれを、魔王自らが事実として認めた。
城下町がざわめく。
「天津零って……あの人間だろ?」
「人間が魔王直属……?」
「嘘だろ。何かの間違いじゃ——」
「馬鹿。見ろよ、魔王様の紋章だぞ」
「……本物だ」
「なんで人間なんかを……」
「闘技場で見れば分かるだろ」
「行くぞ。自分の目で確かめる」
疑念。
好奇。
敵意。
そして——僅かな期待。
様々な感情を抱えた魔族たちが、一つの場所へと向かい始める。
目指す先は——城下町南端。
魔界最大の公開闘技場。
◇
巨大な円形の石造建築。
何百年もの間、数え切れないほどの魔族たちが力を競い合ってきたその場所は、朝から異様な熱気に包まれていた。
すり鉢状に広がる観客席は、すでに千を超える魔族で埋め尽くされている。
翼を持つ者。
獣の耳や角を持つ者。
人の姿から大きく外れた異形の者。
普段なら同じ場所に集まることすら珍しい種族たちが、今日ばかりは一つの舞台を見つめていた。
その理由は、ただ一つ。
——魔王直属の人間。
怒号にも似た歓声。
野次。
笑い声。
期待。
それらが混ざり合い、巨大な闘技場そのものを震わせていた。
その喧騒を壁一枚隔てた場所。
零は、控室から闘技場へと続く通路に立っていた。
目の前には、薄暗い石造りの一本道。
その先から、眩い光が差し込んでいる。
光の向こうから聞こえる、何百もの声。
零は静かに息を吐いた。
「……すごい人数だな」
緊張していないと言えばもちろん嘘になる。
人界でも訓練と呼ばれるかは怪しいが……実戦は経験してきた。
だが——これほど大勢の視線を一身に浴びて戦うのは初めてだ。
今までは、基本的に追手から逃げるため、もしくは、それらを殺すための戦いだった。
人に見せられる様なものではなかったし、何より生き残るための孤独な戦いだった。
しかし、今日は、自分一人の問題ではない。
魔王直属。
リリスが自ら、その名の下に零の存在を認めた。
つまり——
ここで無様に負ければ、傷つくのは自分の名だけではない。
「——準備はいい?」
背後から声がした。
振り返る。
通路の入口に、ルシアが立っていた。
「シエラとクオンは、もう観客席にいるわ。私もこれから行く」
それから、上を指差す。
「魔王様は——上の貴賓席」
零が視線を上げる。
当然、ここからリリスの姿は見えない。
それでも。
この通路の先。
闘技場の遥か上から、あの深紅の瞳が自分を見ている。
そう思うだけで、不思議と緊張が薄れていった。
「……そうか」
「ええ」
短いやり取り。
ルシアは何かを言おうとして——一度、口を閉じた。
そして。
「……行ってきなさい」
その瞬間。
通路の先から、拡声魔法によって増幅された声が轟いた。
『——さあ! 続いての挑戦者は!!』
観客席の喧騒が、一瞬だけ静まる。
零は前を向いた。
『本日、魔王様より直々にその所属を布告された——謎多き戦士!!』
空気が震える。
零は一歩、踏み出した。
『人界より来たりし、魔王直属の人間!!』
二歩目。
暗闇の先。
光が近づいてくる。
『——天津ゥ!! 零ィィィィッ!!』
——ドッ!!
闘技場が爆発した。
歓声。
野次。
罵声。
そして、好奇の声。
それらすべてが混ざり合った轟音が、石造りの通路を震わせる。
「人間だ!!」
「本当に出てきやがった!」
「魔王様は何を考えてる!?」
「殺されるぞ!」
「いや——どれだけやれるか見せてもらおうじゃねえか!!」
光の中へ踏み出す。
眩しさに目を細めたのは、一瞬だけ。
やがて金色の瞳が開かれる。
視界いっぱいに広がる巨大な闘技場。
そのすべての視線が——零ただ一人へと注がれていた。
零は腰に差した魔剣の柄へ、静かに手を置く。
そして。
遥か上方——貴賓席へ視線を向けた。
そこにいた。
白銀の髪。
深紅の瞳。
魔王——リリス。
貴賓席の中央。
玉座を思わせる豪奢な椅子に腰掛け、頬杖をつきながら闘技場を見下ろしている。
周囲の喧騒など、まるで耳に入っていないかのように。
その深紅の瞳は——ただ一人。
零だけを見ていた。
視線が重なる。
ほんの数秒。
やがてリリスの口角が、微かに持ち上がった。
——見せてみなさい。
声など聞こえるはずもない。
だが、その表情がそう言っているような気がした。
「……上等」
零も小さく笑い、視線を戻す。
その途中。
観客席の一角に、見慣れた三人の姿を見つけた。
ルシアは腕を組んだまま、真っ直ぐこちらを見つめている。
その隣では、シエラが零と目が合った瞬間、大きく手を振った。
「零ー! 負けたら承知しないからねー!」
この喧騒の中でも、不思議とその声だけは聞こえた。
「はは、目立つ奴だな……」
思わず零が苦笑する。
そのさらに隣。
クオンはいつも通りの無表情で、零を見ていた。
目が合うと——小さく頷く。
それだけで十分だった。
『——さあ!! それでは第一試合!!』
司会の声が響き渡る。
『挑戦者はもちろん——本日最大の注目株!! 魔王直属、天津零!!』
再び観客席から野次と歓声が飛ぶ。
『対するは——!!』
反対側の巨大な鉄扉が、ゆっくりと開いていく。
——ズン。
重い足音。
——ズン。
一歩ごとに、その巨体が姿を現していく。
『城下武闘会、十二戦九勝!! その拳で幾人もの戦士を沈めてきた——《鉄拳》のガルドォォォ!!』
「うおおおおおおお!!」
観客席が一斉に沸き立った。
「ガルドォォ!!」
「人間なんかぶっ潰せ!!」
「一発で終わらせろ!!」
歓声を浴びながら現れたのは、身長二メートルを優に超える鬼族の男だった。
盛り上がった筋肉が鎧のように全身を覆い、両腕には巨大な鉄の篭手。
一歩踏み出すたびに、石畳が軋む。
零はその姿を見上げる。
——鬼族。
昨日、嫌というほど相手にした。
もっとも——
「……クオンよりは、全然マシそうだな」
「……あ?」
ガルドの眉が動く。
「今、なんつった?」
「いや。こっちの話」
ガルドのこめかみに青筋が浮かんだ。
「へっ……まあいい」
巨大な拳を打ち合わせる。
——ゴォン!!
鉄と鉄が激突した轟音が、闘技場に響き渡った。
「人間風情が、魔王直属だぁ?」
ガルドが零を見下ろし、鼻で笑う。
「魔王様が何を考えてるか知らねえが……俺は認めねえ」
零の表情は変わらない。
「そうかよ」
「ああ」
ガルドが腰を落とす。
太い脚に力が込められ——足元の石畳に亀裂が走った。
「だから——」
獰猛な笑み。
「一発で終わらせてやるよ」
『——試合開始ィ!!』
鐘が鳴った。
「オラァァァァァッ!!」
ガルドが大地を蹴る。
石畳が砕け、巨体が弾丸のように一直線に零へ迫った。
鉄の拳が振りかぶられる。
狙いは——頭部。
それでも。
零は動かない。
「——死ねぇ!!」
拳が迫る。
そこで。
零は、半歩だけ横へずれた。
「——なっ!?」
——ブォンッ!!
鉄拳が空を切る。
猛烈な風圧が、零の黒髪を激しく揺らした。
ガルドの身体が僅かに前へ流れる。
——隙。
零の金色の瞳が細められた。
「遅い」
踏み込む。
腰の魔剣を抜く。
——ギィンッ!!
銀光が走った。
だが、刃は返している。
すれ違いざま。
魔剣の峰が——ガルドの脇腹へ叩き込まれた。
——ゴッ!!
「ぐっ……!?」
巨体が大きく傾く。
観客席から声が消えた。
「……今、何した?」
「避けた……のか?」
「ガルドの突進を……?」
ガルドがゆっくりと振り返る。
「……てめえ……!」
対する零は、抜いた魔剣を片手に下げたまま。
「一発で終わらせるんじゃなかったのか?」
「——ッ!!」
「調子に……乗るなァァァァ!!」
再び地面を蹴る。
右。
左。
右。
巨大な鉄拳が嵐のように零へ襲いかかる。
だが。
——右。
首を傾ける。
——左。
半歩引く。
——右。
腰を落とす。
当たらない。
「なんで……!」
さらに速度が上がる。
それでも——当たらない。
「なんで当たらねえッ!!」
零は答えない。
《神装》は使っていない。
昨日。
クオンに何度も吹き飛ばされながら、身体へ叩き込んだ経験。
それだけ。
ガルドの右拳を躱す。
懐へ。
一歩。
零は攻めに転じた。
低く構えた魔剣。
そのまま一気に、ガルドの懐へ潜り込む。
(クオンの速さは、重さは、こんなもんじゃなかった)
「そこだ」
——ギィンッ!!
零の魔剣が閃く。
狙ったのは、鉄の篭手——その留め具。
「ぐっ——!?」
甲高い音とともに留め具が弾け飛ぶ。
片方の篭手が石畳へ転がった。
ガルドが後退する。
だが——零の方が速い。
一歩。
回り込む。
そして背後。
魔剣の峰が、ガルドの膝裏を正確に薙いだ。
——ズンッ!!
巨体が崩れ、片膝が石畳へ叩きつけられる。
ガルドが顔を上げる。
その喉元には——零の魔剣。
「…………っ」
完全な静寂。
数秒遅れて、司会が我に返った。
『——そこまでぇぇぇ!! 勝者、天津零ィィィィ!!』
「嘘だろ……」
「ガルドが一分も持たなかった……?」
「あの人間、噂の《神装》も使ってないぞ……」
「何者なんだ……?」
零を見る観客たちの目が、明らかに変わっていた。
零は魔剣を鞘へ収めると、ガルドへ手を差し出した。
「…………」
しばらくその手を見つめていたガルドだったが。
「……ふん」
零の手を掴み、立ち上がる。
「……やるじゃねえか、人間」
「そりゃどうも」
ガルドは僅かに笑い、背を向けた。




