第百十四環 「明星」
——人界王城・玉座の間。
リリスの全身が総毛立った。
殺気。
いや、そんな言葉では足りない。
世界から「生きている」という事実そのものを剥ぎ取るような、根源的な死の気配。
魔界に君臨してきたリリスの本能が、今すぐ全力を出せと絶叫している。
深紅の魔力が爆発した。
白銀の髪が逆立ち、黒い魔角が伸びる。玉座の間を満たした存在圧が床を砕き、残された壁を軋ませていく。
これは判断ではない。
魔族としての生存本能。
今すぐ、自分という存在の全てを解き放たなければ、死ぬ。
その確信が、魔王を原初へと導いた。
「心こそ、何者にも侵されぬ——ただ一つの領域」
深紅の魔力が、夜の色へ染まる。
「光なき深淵さえ、意志は己が星で照らす」
リリスの背後に、十二枚の漆黒の翼が開いた。
一対。
二対。
三対——。
翼が開くたびに、周囲を支配していた既存の法則が沈黙していく。
「翼を焼かれ、すべてを奪われようとも——」
深紅の瞳の奥に、堕ちた明星が灯った。
「高天に赦しを乞うくらいなら、この永き夜の法となろう」
空間が沈黙した。
零の夢幻抱擁さえ、一瞬だけ脈動を止める。
一華の背後で回転していた白い光輪も、動きを鈍らせた。
「原初真名——《明星》」
魔王が、最後の真名を解き放つ。
「——《起源回帰》」
その瞬間。
玉座の間から、リリス以外の法則が消えた。
魔術も。
神装も。
因果も。
定められた運命さえ。
この永き夜において、何が存在し、何が許されるのか。
それを決められるのは、ただ一人。
魔王リリスだけ。
完全なる支配領域。
あらゆる法則を己より下位へ置き、その成立を許すか否か決める、魔界最強の権能。
白い少女が持つ刀も例外ではない。
刃が動けば、リリスはその斬撃を拒絶できる。
空間を越えようとも。
因果を捻じ曲げようとも。
この夜に存在する限り、全ては魔王の法へ従う。
だからこそ——リリスには、理解できなかった。
「——え?」
いつから刺さっていたのか。
胸に、白銀の刀があった。
振るわれた瞬間はない。
リリスが許可していない力が、領域へ侵入した気配もない。
次に認識した時には、左脇腹を短刀が貫いていた。
右腿には薙刀。
左肩には槍。
その事実を理解するよりも早く、無数の白銀の刃が、既にリリスの全身を貫いていた。
「——ぁ……」
攻撃されたのではない。
少女が刃を振るうよりも前に、「貫かれた」という結果だけが現実へ置かれている。
防ぐことも、避けることもできない。
なぜなら、リリスが攻撃に気づいた時には、その攻撃は既に終わっているのだから。
十二枚の漆黒の翼が引き裂かれた。
刀が右肩を。
短刀が左脇腹を。
薙刀が右腿を。
槍が左肩を。
無数の白銀の刃が、魔王の肉体を玉座の間の壁へ縫い留める。
完全起源回帰を果たした魔王が。
この空間における唯一の法となったはずのリリスが。
何一つ認識できないまま、磔にされていた。
深紅の瞳が、驚愕に見開かれる。
痛みではない。
自分を貫いた力の正体を、魔界最強の魔王でさえ理解できなかった。
《明星》は破られていない。
領域も、今なお存在している。
それなのに、リリスが斬られたという結果だけが、その法の外側から書き込まれていた。
「リリスッ!!」
零の絶叫が、玉座の間へ響いた。
白い少女が、ゆっくりと振り返る。
半分だけ露わになった一華の顔。
その唇には、妹だった頃と何一つ変わらない、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
「大丈夫」
優しい声。
だからこそ、そこに感情がないことが恐ろしかった。
「殺してないよ」
一華の瞳が零を映す。
「まだ、お兄ちゃんの番じゃないから」




