第百十五環 「ごめんね」
——人界王城・玉座の間。
「何を……何をしてんだよ、一華!!」
零が叫んだ。
声が割れていた。
理解を拒む脳へ、それでも目の前の光景が突きつけられる。
壁へ磔にされたリリス。
漆黒の十二翼は引き裂かれ、無数の白銀の武器が魔王の全身を貫いている。
深紅の血が刃を伝い、床へ広がっていた。
白い少女が、リリスの右肩を貫いていた刀へ手を伸ばす。
ゆっくりと引き抜いた。
「——ッ、ぁ……」
リリスの口から血が溢れる。
それでも、生きている。
他の刃が肉体と翼を壁へ縫い留めたまま、深紅の瞳だけが零へ向けられていた。
逃げろ。
声にならない唇が、そう動いた。
一華が振り返る。
仮面の左半分は外れ、記憶の中と同じ顔が露わになっている。
あどけなさの残る頬。
小さな唇。
何度も零の名を呼んだ、妹の顔。
だが、その唇が歪んだ。
悍ましい笑み。
歓喜でも、怒りでもない。
誰かを壊すことへ、遠い昔から慣れ親しんでいるような笑みだった。
それは天津一華の感情ではない。
妹の顔を借りた何かが、零を見て笑っている。
「——ッ!」
零は《無窮蛇装》を再展開しようとした。
夢幻抱擁が脈動し、黒い鱗が右腕から全身へ広がり始める。
だが、遅いという言葉すら、正しくなかった。
鎧が完成するより早く攻撃されたのではない。
攻撃されるより先に既に鎧が砕けていた。
黒い鱗が飛び散る。
左腕へ斬傷が生まれた。
次に認識した時には、右脇腹を貫かれている。
膝の腱が断たれ、体勢が崩れた。
刀が振るわれた軌道はない。
刃が肉体へ触れた瞬間もない。
ただ「斬られた」「貫かれた」「膝を断たれた」という結果だけが、零の肉体へ次々と刻まれていく。
「がッ——!」
零は概念操作を起動しようとした。
「防御」を増加——。
対象がない。
「速度」を減少——。
過程が存在しない。
「攻撃」を減少させようとした時には、その攻撃は既に終わっている。
零が見ているのは、戦闘ではなかった。
自分の敗北という結末が、一行ずつ現実へ書き込まれていく光景だった。
左肩が裂ける。
腹部へ新たな穴が開く。
視界が反転し、気づいた時には零の体は床へ叩きつけられていた。
血が広がっていく。
呼吸ができない。
指先へ力が入らない。
それでも金色の瞳だけは、妹の姿を追い続けていた。
一華が零の前へ立つ。
いつ近づいたのかは分からない。
次に認識した時には、白銀の刀が逆手に握られ、その切っ先が零の心臓へ向けられていた。
終わる。
そう理解した。
この距離では、防ぐという結果へ辿り着けない。
回避する未来も存在しない。
零は動かなかった。
血に濡れた金色の瞳で、妹の顔を見上げる。
「一華——」
刀が、振り下ろされる。
過程のない一撃。
本来なら、次の瞬間には零の心臓を貫いた結果が成立しているはずだった。
だが——切っ先は、零の胸の数センチ上で止まっていた。
「……あ、れ」
一華の声に、初めて揺らぎが混じる。
白い腕が震えている。
刀を振り下ろそうとしても、動かない。
結果を成立させようとしても、天津一華の肉体が、それを拒んでいた。
「…………」
一華は、自分の手を見下ろした。
震える指。
命令に従わない腕。
空白だった瞳の奥に、僅かな光が明滅する。
零を見つめる。
倒すべき敵ではなく。
殺すべき対象でもなく。
たった一人の兄として。
その時。
天から白い光が降った。
光柱が玉座の間の崩れた天井を貫き、一華の体を包み込む。
少女の足が床から離れた。
白い衣装が光の中で揺れ、背後の光輪が眩い輝きを放つ。
「ごめんね、お兄ちゃん」
その声には、ほんの僅かに、温もりがあった。
一華自身の声。
空白の何かではなく、零が一年間求め続けた妹の声だった。
「時間切れみたい」
一華の体が光の中を浮上していく。
仮面がずれたまま、半分だけ露わになった顔が零を見下ろしていた。
その瞳に、一瞬だけ感情が灯る。
悲しみなのか。
懐かしさなのか。
それとも、助けを求めていたのか。
零には分からなかった。
血塗れの腕を伸ばす。
骨が軋む。
指先が震える。
それでも、届かないと分かっていても、手を伸ばした。
「一華……ッ!!」
光が強くなる。
少女の輪郭が薄れていく。
「待ってくれ……一華!!」
一華の唇が僅かに動いた。
だが、その声は届かなかった。
白い光が少女を包み込み、崩壊した天井を抜けて空へ昇っていく。
光柱は雲を貫き、やがて何も残さず消えた。
静寂。
残されたのは、崩壊した玉座の間。
物言わぬアルトリウスの骸。
無数の刃によって壁へ磔にされたリリス。
そして、広がる血溜まりの中、膝をつく零。
差し伸べた手は、何も掴めないまま宙に残されていた。
「いち……か……」
掠れた声に、答える者はいない。
一年前と同じだった。
また、目の前から妹が消えた。
だが、一つだけ違う。
一華は生きている。
あの体の中には、今も妹の心が残っている。
零を殺すことを拒み、「ごめんね」と告げた。
ならば。
まだ、終わっていない。
人界の王との戦いは、終わった。
復讐の相手だったアルトリウスも、もういない。
だが零の戦いは——世界を滅ぼすナニカから、妹を取り戻すための戦いへと、その形を変えた。




