第百十一環 「王の兵器」
——人界城下町外縁・魔王軍本陣。
城下町から離れた草原に、魔王軍の本陣が敷かれていた。
簡易天幕の中心で、《四座》が治療を受けている。
ルシアは意識こそ保っていたが、起源回帰と矛盾魔法の反動で全身の魔力回路が焼けかけていた。仰向けに横たわり、悔しそうに天幕を睨んでいる。
レイラは目を閉じ、失われた存在を肉体へ馴染ませるように静かな呼吸を繰り返していた。輪郭が時折揺らぐものの、既に存在希薄化からの回復は始まっている。
シエラは半人半竜の姿を解き、水色の髪を汗で濡らしたまま眠っていた。
龍皇の力を制御した反動に加え、零へ生命力を分け与えた消耗も大きい。
そして、クオンだけが立っていた。
左腕の包帯は赤く染まり、額からも血が流れている。
それでも薄橙色の瞳に揺らぎはない。
傍らには、刃こぼれした黒い大戦斧が置かれていた。
「まだ寝てろ。お前たちは十分やった」
起き上がろうとしたルシアを、一瞥だけで制する。
天幕の外では、魔王軍と人界軍の戦闘が続いていた。
戦況は魔王軍が優勢。
純粋な身体能力と魔術の質では、精鋭魔族が人界兵を圧倒している。本陣を守る防衛線も、盤石に見えた。
だが——。
北東の戦線で、一人の人界兵が膝をついた。
「が、あ゛あ゛ッ——!」
鎧の隙間から、赤黒い肉が噴き出す。
骨が軋み、関節があり得ない方向へ折れ曲がった。瞳から理性が消え、裂けた口から牙が伸びていく。
一人。
二人。
三人。
人界兵が次々と異形へ変貌し始めた。
それはまるで、肉体の奥に眠っていた何かが、一斉に発芽したような光景だった。
異形化した兵が、隣にいた仲間へ喰らいつく。
鎧ごと肉を噛み千切られた兵も、数秒後には苦しみながら姿を変え始めた。
変容が連鎖していく。
人間だったものは敵味方の区別を失い、目に映る全てへ襲いかかった。
クオンが黒い大戦斧を掴む。
「——北東戦線、下がれ」
鬼族の咆哮に等しい声が戦場へ響いた。
前線の魔族が即座に反応し、隊列を保ったまま後退する。
だが異変は、北東だけではなかった。
北西。
東。
南。
中央。
全戦線で、人界兵の肉体が異形へ変わり始めていた。
クオンの金色の瞳に、静かな怒りが宿る。
「……自分の兵まで、道具にしたのか」
誰の仕業かは分からない。
だが人界の生物を自在に作り変えられる者として、最初に浮かぶのはアルトリウスだった。
北西戦線には、巨大な植物型の異形が出現した。
花弁が開くたびに周囲の魔力が沈黙し、魔族の術式が強制的に解除される。地を這う根は負傷兵を絡め取り、その血液と魔力を吸い上げて、肉の繭へ閉じ込めていった。
東戦線では、背中から幾本もの尾を伸ばす異形が暴れている。
尾の先端にある針に刺された兵は、痛覚を歪められた。致命傷を受けても危険を認識できず、偽りの安堵に支配されたまま自ら異形へ近づいていく。
南戦線には、巨大な眼球が浮遊していた。
瞳孔から放たれる魔弾は標的を執拗に追尾する。それに対する攻撃は、見えない力で軌道を変えられ、決して本体へ届かない。
中央戦線を襲ったのは、肉眼では捉えられないほど小さな寄生型の異形だった。
傷口から侵入し、宿主の攻撃衝動と支配欲を増幅する。
寄生された兵は敵味方の区別を失い、隣に立つ仲間へ剣を向けた。疑心と怒号が広がり、防衛線が内側から崩されていく。
クオンは止まらなかった。
最初に南へ飛び込む。
追尾する魔弾を大戦斧の腹で受けながら、巨大な目玉へ一直線に突進する。逸らされるのなら、逸らし切れないほど広い範囲を破壊すればいい。
大戦斧が石畳ごと眼球を叩き潰した。
「次」
東戦線では、殺到する尾を片手で掴む。
針が掌へ食い込み、感覚を歪める毒が流れ込んだ。
だが、効かない。
魔王の卵として目覚めたクオンの存在圧が、体内へ侵入した異物を拒絶した。
尾を引き千切り、大戦斧で本体を両断する。
中央戦線へ到達すると、クオンは一度だけ目を閉じた。
黄金の存在圧が放たれる。
空気が軋み、目に見えない寄生体が一斉に押し潰された。
「中央は、私の圧が残っている間に焼き払え。北西の植物型には近づくな」
部隊長へ言い残し、クオンは森へ向かう。
植物型の異形が密集する領域。
甘く腐った臭いが漂い、巨大な花と無数の根が、捕らえた魔族を肉の繭へ変えていた。
領域へ踏み込んだ瞬間、クオンを覆っていた魔力が消える。
それでも足は止まらない。
鬼族の膂力は、魔力だけで作られたものではない。
巨大な根が、四方から襲いかかる。
黒い大戦斧が一閃した。
数十本の根がまとめて断ち切られ、緑色の体液が雨のように降り注ぐ。
肉の繭に閉じ込められた兵の一人が、薄く目を開いた。
「ク、オン……様……」
「喋るな」
クオンが大戦斧を担ぎ直す。
「待ってろ。今——助ける」
地面を蹴った。
異形の中心で脈動する巨大な花弁。その奥に埋め込まれた核へ、大戦斧を振り下ろす。
轟音。
核が砕け、領域全体を覆っていた根が一斉に萎れた。
魔力無効化が消える。
後方で待機していた救助部隊が踏み込み、繭から兵たちを救い出していく。
クオンは最後まで倒れなかった。
異形の核を全て破壊し、指揮を部下へ引き継いでから、ようやく本陣へ戻った。
戦線鎮圧からしばらく後。
天幕では、意識を取り戻した四座が情報を照合していた。
レイラが紅茶のカップを置く。
「偶然にしては、似すぎてる」
「植物型の魔力消去は、メツの『寂滅』に近いわ」
ルシアが続けた。
「尾型の痛覚干渉はダッカの『万苦転写』。作用は逆でも、感覚へ干渉する本質は同じ」
シエラが水色の髪を指へ巻きつける。
「目玉型の追尾と軌道操作は、ドゥ・マーガの『唯一正道』。寄生型の衝動増幅は——ザムダの『渇愛』そのものだね」
クオンが低く告げた。
「四聖剣の力が、異形に分け与えられている」
四人の間に沈黙が落ちる。
「永劫支配は、生物を作り変える神装」
ルシアの真紅の瞳が細められた。
「アルトリウスが、四聖剣の能力を異形の設計へ組み込んでいたとしたら……」
「王自身も使えるかもしれない」
シエラの声から、普段の軽さが消える。
「四人分——あるいは、第五席まで含めた五人分を」
誰も答えなかった。
ただ四人が同時に王城の方角を見た。




