第百十環 「白き仮面の少女」
——人界王城・第三城壁前。
零とリリスが合流したのは、王城を守る最後の城壁の前だった。
リリスは無傷だった。
白銀の長髪が風に揺れ、深紅の瞳が静かに零を見据えている。黒と赤の魔王装束にも乱れはなく、その存在感だけで周囲の空気が重く沈んでいた。
「遅かったじゃない」
軽い口調。
だが零の全身に致命傷がないことを確認した瞬間、その目元が僅かに緩んだ。
「四人は?」
「全員無事だ。クオンが回収部隊へ引き渡した」
「……そ。なら、いいわ」
一瞬だけ安堵を覗かせ、すぐに魔王の顔へ戻る。
リリスが見上げた先には、巨大な白亜の壁が聳えていた。
第三城壁。
人界王城を守る最後の防壁であり、その表面には無数の聖紋が刻まれている。魔族の魔力を拒絶する結界だけではない。城壁へ近づいた者の認識へ干渉し、無意識に遠ざける精神術式まで重ねられていた。
「私が結界を剥がす」
リリスが右手を掲げる。
「零。あんたは、壊しなさい」
「ああ」
深紅の魔力が爆発した。
魔王の力が城壁を覆い、幾重にも重なった聖紋を一枚ずつ引き剥がしていく。精神へ忍び込もうとした命令さえ、リリスの存在圧に触れた瞬間、悲鳴を上げるように砕け散った。
零の右腕で、夢幻抱擁が脈動する。
「硬度」を減少。
「結合」を減少。
対して、己の拳へ「衝撃」と「破壊」を増加させる。
リリスが最後の結界を剥ぎ取った。
「——今よ!」
零の拳が白亜の壁へ叩き込まれた。
轟音。
第三城壁が内側から弾け飛んだ。
巨大な亀裂が壁面を駆け抜け、白い石材が崩れ落ちる。立ち昇った粉塵の向こうに、王城の前庭が現れた。
人影はない。
宮殿へ続く長い石畳と、その先に大きく開かれた正門だけが見える。
まるで、最初から二人を招き入れるつもりだったかのように。
零とリリスは視線を交わし、並んで前庭を進んだ。
開かれた扉を抜け、長い回廊を進む。
その先。
壮麗な玉座の間に二つの人影があった。
一人は玉座に腰掛ける男。
アルトリウス。
零の妹を奪い、一年間にわたる復讐の全てを生み出した人界の王。
その姿を認識しただけで、零の全身に殺意が走った。
だが——王の傍らに、もう一人いた。
白い仮面をつけた、小柄な少女。
純白の衣装に身を包み、その背後では白い光輪が音もなく回転している。
第五席——確か名前は、ŚŪNYA。
零は足を止めた。
体格。
立ち姿。
僅かに内側へ傾いた肩。首の角度。細い腕の長さ。
「……え?」
仮面の下は見えない。
それでも、体が覚えていた。
何千回と目にしてきた輪郭。
何万回と隣を歩いた影。
「……は?」
掠れた声が漏れた。
あり得ない。
一年前、目の前で殺された。その瞬間を忘れたことなど一度もない。
だが、白い仮面の少女が口を開いた。
「——お兄ちゃん」
零の世界が止まった。
その声。
一年間、夢の中で何度も聞いた声。目を覚ますたびに消え、二度と聞けないと思っていた声。
天津一華。
零の、妹。
「一華——!」
理性より先に、零の足が動いた。
だが、その胸を白い腕が押し留める。
「止まりなさい」
リリスだった。
低く、有無を言わせない魔王の声。
「あれが報告にあった第五席よ」
「何言ってんだ。あれは一華だ。俺の妹だ。死んだはずの——」
「だから罠なのよ」
鋭い声が、零の感情へ切り込んだ。
「考えなさい。殺された妹が、どうして第五席としてあの男の隣に立ってるの? アルトリウスが何の意味もなく生き返らせたと思う?」
分かっている。
頭では、分かっている。
それでも。
「お兄ちゃん」
もう一度、少女が呼んだ。
「久しぶりだね」
抑揚も、呼吸の間も、僅かに上がる語尾も。
間違いなく、一華のものだった。
アルトリウスが玉座から立ち上がる。
「感動の再会だね、零」
その声は老いて掠れていた。
だが話し方だけは、十代の少年のように軽い。
「余の《永劫支配》は、生物を望む形へ作り変える。一華は一華のまま蘇った。記憶も人格も、お前への想いもね」
「……全部、そのまま……?」
「ああ。ただ、余の命令に逆らえない。それだけだよ」
アルトリウスが両手を広げた。
「零。余に降れ」
「そうすれば、妹を返してあげる」
沈黙が落ちた。
零の全身が凍りつく。
リリスの手に、強い力が込められた。
「零」
深紅の瞳が、零だけを見つめている。
「あいつの言葉を聞くな——私を見なさい」
零の視界に、これまでの記憶が浮かんだ。
自分の才能を誰より先に認めてくれたルシア。
全力で拳を交え、強いと告げてくれたクオン。
同じ空を飛び、自分を番として選んだシエラ。
痛みも孤独も共有し、それでも隣にいてくれたレイラ。
そして。
何もかも失った自分を拾い、ここまで導いてくれたリリス。
『あんたを失うつもりはないの』
一年前。
零は全てを失った。
だが、今は違う。
零は顔を上げた。
「——降らない」
声は、もう震えていなかった。
「一華は取り戻す。お前を殺して、俺が救う」
アルトリウスの笑みが僅かに深まる。
「リリスも、ルシアも、シエラも、レイラも、クオンも、もう俺の大切な存在だ」
夢幻抱擁が脈動する。
「お前に差し出すものなんか、何一つない」
零は、王を真っ直ぐに射抜いた。
「お前を殺して、妹を救ってみせる」
数秒の沈黙。
「くっ、ははは……」
そしてアルトリウスが声を上げて笑った。
「ハハハハハッ! 素晴らしいよ、零!」
その笑顔には、怒りも失望もなかった。
むしろ、待ち望んでいた答えを聞いたような、純粋な歓喜が浮かんでいる。
「その目だ。一年前、余から逃げ出した時の目、消えずに育ってくれたんだね」
永劫支配が光を放つ。
光は他者ではなく、アルトリウス自身の肉体へ流れ込んだ。
筋肉が膨張し、骨格が再構築される。全身へ聖紋が浮かび、右腕が巨大な黒い刃へ変貌した。
《終焉剣》。
左腕から、赤黒い槍が生える。
《魔槍》。
背後に白銀の大鎌が現れ、足元には黄金と蒼の杖が浮かび上がった。
《静寂鎌》。
《天命杖》。
四聖剣の神装を模した、四つの複製。
リリスの深紅の瞳が細められた。
「四聖剣の神装構造を、自分の肉体へ保存していたのね」
「永劫支配は作り変える力。他人だけじゃない。余自身も——好きな形へ変えられる」
四つの神装を纏ったアルトリウスが、楽しそうに両腕を広げた。
「さあ、見せてよ」
掠れた声が、弾む。
「余の望んだところまで——君が本当に辿り着くことが出来たのかを」




