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第百九環 「欲界天を越えて」


——人界・東の尖塔。


「……なるほどな」


シュウ・ザムダが、ゆっくりと顔を上げた。


先ほどまで浮かんでいた軽薄な笑みは消えている。


《魔槍(クレイヴィング)》を握り直し、半人半竜となったシエラを静かに見据えた。


「欲を消したわけじゃねえ。受け入れて、飼い慣らしたつもりか」


「飼い慣らしたんじゃないよ」


シエラが片翼を広げる。


「これも私だって、認めただけ」


「……そうか」


ザムダの声から、完全に軽薄さが消えた。


そこに残っているのは、自らの信仰を否定された者の静かな怒りだった。


「なら、証明してみろ」


《魔槍》の石突きが、地面へ打ちつけられる。


赤黒い亀裂が、尖塔全体へ走った。


「お前が欲望の中に立っても本当に、自分で飛ぶ方角を選べるのかを」


魔槍から溢れた赤黒い光が、空を覆った。


地平線が消える。


崩壊しかけた尖塔も。


人界の青空も。


遠くに見えていた王城さえ、赤黒い光へ呑み込まれていく。


「神装——第二位階」


無数の囁きが、領域の内側から響き始めた。


欲しい。


奪いたい。


愛されたい。


満たされたい。


世界中の欲望が声となり、零とシエラの精神へ流れ込んでくる。


ザムダが両腕を広げた。


「《欲界天(カーマ・ダートゥ)》」


世界が、欲望へ塗り替えられた。



     ◇



シエラは、青空の中に立っていた。


先ほどまでの戦場ではない。


雲一つない、どこまでも澄み渡った空。


眼下には争いも、王城も存在しない。


魔界も人界もない。


あるのは、果てしなく続く空だけ。


そして。


「シエラ」


声に振り返る。


零がいた。


傷一つない姿で、穏やかに笑っている。


「もう、全部終わった」


零が手を差し伸べる。


「王も、四聖剣も、どうでもいい。リリスも、ルシアも、レイラも、クオンも、もう必要ない」


シエラの胸が、強く跳ねた。


「これからは、二人だけでいい」


それは、望んだことのある未来だった。


零を独占したい。


誰にも邪魔されず、二人だけで空を飛び続けたい。


別れも。


争いも。


零を失う恐怖もない世界。


「ずっと、ここにいよう」


差し伸べられた手が近づいてくる。


シエラの指が、無意識に動いた。


触れたい。


その手を取れば、欲しいものが全て手に入る。


『そうだ』


ザムダの声が、青空全体から響いた。


『それがお前の望みだ』


足元から赤黒い鎖が伸び、シエラの足首へ絡みついた。


さらに腕へ。


腰へ。


首へ。


片翼へ。


鎖が増えるたび、目の前の零が優しく笑う。


『欲望は嘘をつかねえ』


『誰かを愛するってことは、自分を満たすためにそいつを求めることだ』


『お前はこいつが欲しい』


『なら——奪え』


「……うん」


シエラが小さく頷いた。


赤黒い鎖が、歓喜するように脈動する。


『そうだ。それでいい』


「欲しいよ」


シエラは、目の前の零を見つめた。


「触れたい。私だけを見てほしい。ほかの誰にも渡したくない」


幻の零が、差し伸べた手をさらに近づける。


「全部、私の欲」


シエラの指先が、その手へ触れようとして——止まった。


「でも」


空を見上げる。


青い。


どこまでも美しく、何一つとして欠けていない空。


だが、風がなかった。


雲も動かない。


髪も揺れない。


完璧に用意された景色が、永遠に同じ形で固定されている。


「こんなの、空じゃない」


幻の零の表情が止まった。


「何を——」


「零は、そんなこと言わないよ」


シエラが笑う。


「私だけを選んでほしいって、思ったことはある。でも、零の意思を奪ってまで選ばれたいわけじゃない」


零が自分から何もかもを捨てる。


仲間を捨て。


復讐を捨て。


シエラだけのものになる。


それは確かに、甘美な夢だった。


だが、そこに零自身の意志はない。


「零の意思がない空を、二人で飛んだって、意味ないじゃん」


幻の顔へ亀裂が走った。


赤黒い鎖が締まり、シエラの身体へ食い込む。


『強がるな!』


ザムダの声が響く。


『それはお前自身の欲だ! 否定すればするほど、お前は渇き続ける!』


「否定してないって」


シエラは、自分を拘束する鎖へ手を添えた。


それは敵から与えられたものではない。


自分の中に存在する独占欲。


嫉妬。


執着。


零を求める、竜族の本能。


「全部、私のもの」


鎖を掴む。


力任せに引き千切ろうとはしない。


排除も、拒絶もしない。


胸の内へ受け入れる。


赤黒かった鎖が、シエラの蒼い魔力に染まっていく。


『な——』


「欲は、私を飛ばす風になる」


蒼く変わった鎖が解け、光の粒子となって片翼へ吸収された。


翼が大きく広がる。


暴走した欲望の全てが、シエラを前へ進ませる力へ変わっていく。


「でも——」


蒼い瞳が、幻の向こう側にいるザムダを捉えた。


「飛ぶ方角まで、欲に決めさせるつもりはない」


片翼が振り抜かれた。


蒼い閃光が、偽りの青空を切り裂く。


幻の零が砕けた。


止まっていた雲が崩れ、赤黒い空が露わになる。


《欲界天》に、巨大な亀裂が走った。



     ◇



「馬鹿な——!」


現実へ戻ったザムダが叫んだ。


赤黒い領域が、内側から蒼い光へ侵食されている。


「欲を認めたまま、《欲界天》の支配を破っただと……!」


「言ったでしょ」


シエラの姿が消えた。


「それごと飛べるって」


次の瞬間には、ザムダの眼前へ立っていた。


《魔槍》が、反射的に突き出される。


シエラは身体を僅かに傾け、穂先を躱した。


頬を掠め、赤い傷が走る。


それでも止まらない。


竜鱗に覆われた右手が、槍の柄を掴んだ。


「捕まえた」


「——ッ!」


ザムダが《渇愛》の出力を引き上げる。


「欲しいんだろうが! あの男を! もっと欲しがれ! 誰にも渡したくないと叫べ!!」


シエラの竜角が明滅する。


胸の奥で、独占欲が再び膨れ上がった。


零を奪いたい。


連れ去りたい。


どこまでも遠い空へ、二人だけで逃げたい。


「うん。欲しいよ」


シエラは穏やかに笑った。


「あの人と——もっといろんな空を飛びたい」


《魔槍》を掴む手へ、力を込める。


赤黒い槍に、亀裂が走った。


「だから、ここで止まる気はない」


槍が砕けた。


赤黒い破片が、宙へ舞う。


ザムダの瞳が見開かれる。


その懐へ、シエラが踏み込んだ。


腰を落とす。


完全竜化の力を、右腕の一点へ集束する。


蒼い紋様が激しく輝き、拳を覆う黒い鱗の隙間から光が噴き出した。


「私の空を——」


拳が、ザムダの胸へ触れる。


「欲望だけで塗り潰さないで」


振り抜いた。


轟音。


蒼い閃光が、赤黒い世界を貫く。


《欲界天》が砕け散った。


現実へ戻った尖塔の上を衝撃波が駆け抜け、残された壁と柱を吹き飛ばす。


ザムダの身体が宙を舞った。


幾度も石畳を跳ね、砕けた槍の傍へ叩きつけられる。


赤黒い光が消えた。


ザムダは、起き上がらない。


シエラは拳を下ろした。


蒼い紋様が明滅する。


限界を超えて引き出した《龍皇》の反動が、一気に押し寄せた。


片翼が萎み、竜鱗に覆われた右腕が震え始める。


それでも、倒れたザムダを見届けるまで立っていた。


四聖剣第二席——集諦剣シュウ・ザムダ。


撃破。



     ◇



シエラは、膝をついていた。


半人半竜の姿が揺らいでいる。


蒼い紋様が明滅し、竜鱗に覆われた右腕が微かに震えていた。


起源回帰の反動が、全身を蝕んでいる。


ザムダは倒れたまま動かない。


赤黒い槍も、既に砕け散っている。


「……あー。ちょっと、やりすぎたかも」


軽い口調だった。


だが、立ち上がれないことは明白だった。


片翼が萎み、竜の尾が力なく地面へ垂れている。


零が駆け寄ろうとした。


「待って」


シエラの蒼い瞳が、真っ直ぐに零を見た。


余裕を感じさせる、いつもの笑み。


ボロボロになっても、どこまでも穏やかだった。


「行って」


短く。


だが、強く。


「ちゃんと、倒してきて」


零が足を止める。


シエラの身体が、起源回帰の反動で動かないことは見れば分かる。


このまま一人にしていいのか。


もし、別の敵が現れたら。


「でも、お前——」


「大丈夫だって。私、何百年も生きてるんだよ?」


シエラが軽く笑う。


「この程度じゃ、死なないから」


その瞳には、零への信頼があった。


守ってほしいと縋るのではなく。


自分を信じて、先へ進んでほしいという強い意志。


「リリス様と一緒に、第三城壁を壊してきな」


口元の笑みが、僅かに深くなる。


「あんたなら、できるでしょ」


零は唇を噛んだ。


心配だった。


この状態のシエラを置いていくことが、正しいとは思えない。


だが——重い足音が響いた。


東の尖塔の入口から、大きな影が現れる。


アッシュグレーの髪。


真紅の瞳。


白く変色した鬼角には、魔王の卵として覚醒した力が今も僅かに残っている。


そして、その手には巨大な黒い大戦斧。


クオンだった。


「心配するな」


鍛え上げられた身体には、メツとの戦いで負った傷が残っている。


それでも、堂々と立っていた。


その瞳が、零を真っ直ぐに見据える。


「みんな、無事だ」


その一言に、零の身体から僅かに力が抜けた。


「ルシアも、レイラも。私が本陣へ連れていった」


クオンがシエラの傍へ歩み寄る。


「シエラも、ここで回収する」


大戦斧を背負い、シエラの身体を支えるように肩を貸した。


「ん……ありがと、クオン」


「礼はいい。お前は休め」


クオンは短く答え、零へ向き直った。


真紅の瞳に宿るのは、純粋な信頼。


「お前は行け。魔王様が待っている」


一拍。


「——第三城壁を壊せ」


クオンの瞳に迷いはない。


「お前なら、できる」


零は頷いた。


振り返らない。


仲間を信じて、前へ進む。


リリスが待っている。


そして。


アルトリウスへ続く第三城壁が待っている。

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