第百八環 「欲望と飛ぶ空」
——人界・東の尖塔。
漆黒の竜が吼えた。
尖塔の壁が砕け、残された天井が崩落する。
巨大な翼が空間を薙ぎ払い、黒い尾が石柱を粉砕した。
理性を失った竜族の起源帰り。
原初の龍皇へ呑み込まれた、シエラの姿。
そして、その暴風の中心で、シュウ・ザムダが嗤っていた。
「いいねぇ……最高だ」
赤黒い槍——《魔槍》が脈動している。
「竜族の番への執着。これほど美しい欲望は、そうそう見られねえ」
《渇愛》が、シエラの執着を際限なく増幅し続けていた。
その一方で、零は蹂躙されていた。
漆黒の竜が、零へ向かって突進する。
番として求めている。
だが、そこに理性はない。
力の加減もない。
巨大な爪が《無窮蛇装》を掠め、衝撃波だけで零の身体を吹き飛ばした。
「ぐッ——!」
壁へ叩きつけられる。
立ち上がる間もなく、ザムダの槍が迫った。
「逃げる暇なんてないぜ? 竜の嫁さんと俺、どっちに集中する?」
零は身を捻り、穂先を辛うじて避ける。
だが、完全には躱せない。
脇腹を浅く裂かれ、鮮血が飛び散る。
暴走したシエラ。
その欲望を増幅させながら、零の内側にある復讐心まで刺激するザムダ。
最悪の挟撃だった。
◇
シエラの意識は、深い闇の中にあった。
竜の本能が全てを支配している。
理性も。
記憶も。
言葉も。
全てが黒い炎に焼かれようとしていた。
だが、その奥底で。
僅かに残った意識が、過去を振り返っていた。
◇
空を飛ぶことが好きだった。
生まれた時から、空だけが、自分の居場所だった。
地上のしがらみも。
種族同士の争いも。
全て、空の上では関係ない。
風を切り。
雲を突き抜け。
誰もいない青の中を自由に飛ぶ。
それだけで満たされていた。
他に好きなことといえば、酒を飲むことくらい。
竜族の寿命は長い。
百年。
二百年。
三百年。
同じ空。
同じ風。
同じ景色。
いつしか、何もかもが退屈になった。
酒を飲んで。
眠って。
目を覚まして。
また、独りで空を飛ぶ。
仲間はいた。
リリスに仕えることにも不満はなかった。
それでも、心のどこかで思っていた。
——このまま何百年も、同じ日が続くのだろう、と。
◇
そこへ、零が来た。
あの日。
零が初めて空を飛んだ日。
シエラの魔力制御を見よう見まねで模倣した。
一度見ただけで。
たった一度見ただけで。
あり得なかった。
竜族の飛行術は、生まれ持った翼と魔力の流れによって初めて成立する。
人間が。
まして、翼さえ持たない人間が模倣できるものではない。
それでも、零は飛んだ。
不格好だった。
安定していなかった。
何度も落ちかけた。
それでも、飛んだ。
自分だけの空。
誰も入ってこなかった、自分だけの領域。
そこへ、簡単に踏み込んできた。
気づけば、零は隣にいた。
風を切る音が二つ。
空へ伸びる影が二つ。
独りで見上げていた空が、二人の空になった。
退屈だった世界が初めて色を持った。
独占したいと思った。
自分だけの空へ入ってきたのだから、この人も自分だけのものにしたいと。
誰にも渡したくない。
ずっと隣を飛んでほしい。
どこにも行かないでほしい。
それは間違いなく、シエラ自身の欲望だった。
だが、それだけではない。
零が選んだ道を見たい。
その隣で、まだ見たことのない空へ行きたい。
零が自分の意志で飛ぶ姿を、誰よりも近くで見ていたい。
シエラが求めていたのは、檻の中に閉じ込めた番ではない。
共に、自由な空を飛べる相手だった。
「……そうか」
闇の中で、シエラが顔を上げた。
欲望を消す必要などない。
竜の本能を押さえ込む必要もない。
それも全て、自分なのだから。
「私は——零が欲しい」
独占したい。
触れたい。
傍にいたい。
その気持ちを認める。
「でも、零の空を奪いたいわけじゃない」
シエラは、ゆっくりと立ち上がった。
かつて、ザムダによって無理やり引き出された起源回帰。
本能だけの《龍皇》。
今度は、自分の意志で選び直す。
「友よ、来たれ——新たな世界を求めるのに、遅すぎることはない」
闇の中へ、蒼い光が差し込んだ。
「抗い、求め、見出して——決して屈することなく」
光が、シエラの身体を包み込む。
「原初真名——《龍皇》」
竜の本能と、人としての理性。
その両方を一つへ重ね合わせる。
「——《起源回帰》」
◇
漆黒の竜の動きが止まった。
咆哮が途切れる。
尖塔を揺るがしていた震動が消え、破壊の嵐が静まり返った。
ザムダの表情が初めて歪む。
「——は?」
漆黒の竜の巨体に、亀裂が走った。
ひび割れから、蒼い光が漏れ出す。
黒い鱗が砕け、その隙間から水色の髪が覗いた。
亀裂が広がる。
漆黒の竜体が、内側から押し破られるように崩壊していく。
鱗が光の粒子へ変わり、尖塔を蒼く染めた。
そして——崩れ落ちた竜の中心に、シエラが立っていた。
半人半竜。
空色の長い髪が風に揺れ、青い瞳が静かに開かれている。
黒い竜角は残され、その身体には蒼い紋様が浮かんでいた。
右腕は黒い鱗に覆われ、背中からは片翼が展開されている。
人と竜の狭間。
理性と本能の狭間。
その両方を共存させた——真なる《龍皇》の姿。
巨体へ拡散していた完全竜化の力を、人型へ凝縮している。
見た目は小さくとも、内包する力は暴走時と変わらない。
むしろ、その全てを意志によって一点へ集束できる。
「……おいおい」
ザムダが引き攣った笑みを浮かべた。
「《渇愛》で増幅した執着を、制御したってのか? あり得ねえだろ」
シエラの蒼い瞳が、ザムダを捉える。
「……欲、ね」
声が戻っていた。
いつもの余裕を感じさせる、穏やかな声。
その奥には、竜の咆哮の残響が微かに混じっている。
「確かに、独占したいって思ったよ。私だけの番。私だけの空。誰にも渡したくないって」
身体を走る蒼い紋様が脈動する。
竜の本能は消えていない。
抑え込んだのでもない。
——共に在る。
シエラは、零の前へ降り立った。
片翼を畳み、傷だらけの零を真っ直ぐ見つめる。
「ごめんね。もう、大丈夫」
その声は穏やかだった。
いつもの余裕ある笑みも戻っている。
だが、青い瞳の奥には竜の本能が静かに燃え続けていた。
シエラの手が、零の頬へ触れる。
傷ついた顔を、そっと包み込む。
そして、唇を重ねた。
深く、静かに。
竜族が番との間でのみ行える、生命力の分与。
口づけを通じ、シエラの生命力が蒼い魔力となって零へ流れ込む。
傷が完全に消えるわけではない。
失った血も戻らない。
それでも裂けた皮膚は塞がり、傷ついた骨と筋肉が戦闘を続けられる程度まで修復されていく。
数秒。
唇が離れた。
「……うん。これなら、まだ戦えるね」
シエラは頬を僅かに赤らめた。
それでも誤魔化さず、零へ微笑みかける。
「——気持ち悪ぃ」
吐き捨てるような声が響いた。
《魔槍》を握り締めたザムダが、穢らわしいものを見るような目で二人を睨んでいる。
顔に浮かぶのは、純粋な嫌悪。
「何だよ、それ。欲を超えた愛? 独占欲じゃない好意? ……反吐が出る」
槍の穂先が震えている。
「触りたい。独占したい。離したくない。全部、欲だろうが! 綺麗事で飾ってんじゃねえ!!」
怒鳴り声には、どこか必死な響きがあった。
シエラは静かに振り返る。
「何が、おかしいの?」
挑発ではない。
嘲りでもない。
ただ純粋に問いかけている。
「独占したいよ。触れたいし、離したくない。そういう欲があった上でも、抑えて、その人を愛したい。そう思うことの何が悪いの?」
「それは詭弁だろうが!」
「違うよ」
シエラが一歩踏み出す。
「人への想いは、それだけじゃないから」
片翼がゆっくりと広がった。
「自分のものにするより、この人が自分で選んだ場所を、一緒に飛びたいって思う」
蒼い瞳が、ザムダを捉える。
「あなたの知ってる愛とは、違ってね?」
ザムダの顔が引き攣った。
「黙れッ——!!」
赤黒い槍が突き出される。
だが。
シエラは既に跳んでいた。
片翼が展開される。
一瞬で間合いを詰める、竜族の超高速機動。
暴走時とは違う。
理性と本能が融合した、完全な制御下での飛翔。
竜鱗に覆われた右腕が振り抜かれた。
轟音。
ザムダの身体が吹き飛ぶ。
槍で辛うじて防いだものの、足で地面を抉りながら数十メートル後退した。
「ぐッ——! さっきまでと、威力が違ッ——!」
半人半竜。
暴走時と同等の力を、正確に一点へ叩き込む。
「私さ、何百年も独りで飛んでたんだよ」
シエラが再び跳躍する。
今度は上空。
片翼で旋回し、急降下する。
竜の右腕が振り下ろされた。
ザムダが槍で受け止める。
だが、足元の地面ごと陥没し、その膝が折れた。
「だから、私の空へ来てくれたあの人を、あんたなんかに汚させない」
蒼い魔力が、竜の腕へ集束していく。
「くそッ……《渇愛》が効かねえ……なんで——!」
「効いてるよ」
シエラが自分の胸へ手を当てた。
「独占したい気持ちは、ちゃんと、ここにある」
そのまま、穏やかに笑う。
「でも、それごと飛べちゃうの。私は」




