第百六環 「正しさの檻」
——人界・西の尖塔。
ルシアは精度を落とした。
意図的に。
八十点の魔術を六十点へ。
六十点から、さらに五十点へ。
軌道をわざとぶらし、着弾点を無作為にずらす。魔力密度にもムラを作り、炎弾自身がどこへ飛ぶのか予測できない状態を生み出した。
不格好な炎弾が放たれる。
それを見たドゥ・マーガの眉が、僅かに動いた。
《天命杖》が傾けられる。
だが、炎弾の軌道は変わらなかった。
逸らすべき「正しい道」が、最初から存在していない。
「届く——!」
不完全な炎弾がドゥ・マーガへ迫る。
しかし。
「……惜しい選択です」
ドゥ・マーガが杖を一振りした。
蒼い魔力の壁が展開され、不完全な炎弾を正面から受け止める。
炎は障壁へぶつかり、呆気なく霧散した。
「——ッ!」
分かっていた。
精度を落とせば、《唯一正道》による因果固定からは逃れられる。
だが、精度を落とした魔術では威力が足りない。
《四聖剣》であるドゥ・マーガの純粋な魔力障壁さえ、突破できない。
精度を上げれば、未来を固定される。
精度を下げれば、威力が足りない。
どちらを選んでも、勝てない。
「精度を極めても、あえて崩しても、あなたが拙僧へ届く道はありません」
ドゥ・マーガが杖を掲げる。
「それこそが、道諦の示す救済なのです」
ルシアの右脇腹へ、衝撃が走った。
「がッ——!」
見えなかった。
また、見えなかった。
倒れ込む。
立ち上がる。
その瞬間、左肩へ二撃目。
膝が折れる。
直後、背中へ三撃目。
鮮血が石畳へ飛び散った。
ルシアは、一方的に打ち据えられていた。
ドゥ・マーガの攻撃は、決して一撃で命を奪うほど強くない。
だが、必ず当たる。
ルシアの回避は、必ず失敗する。
そして、ルシアの攻撃は必ず届かない。
「あなたは優秀です」
ドゥ・マーガが、慈しむような目でルシアを見つめた。
「魔界最強の魔導師。その名に恥じぬ才覚をお持ちです。だからこそ、これ以上、誤った道を進む必要はありません」
《天命杖》が、天へ掲げられる。
空気が変わった。
尖塔を包む空間そのものが、別の法則へ書き換えられていく。
「神装——第二位階」
ドゥ・マーガの背後へ、八つの光輪が展開された。
黄金と蒼が交互に輝く巨大な円環。
一つ。
二つ。
三つ。
やがて八つの光輪が重なり、天上へ続く一本の道を描き出す。
「《正道天》」
世界から可能性が消えた。
ルシアの身体は動く。
魔力も使える。
それでも、何をしようとしても、その先にある結果が見えた。
右へ避ける——当たる。
左へ避ける——当たる。
上へ飛ぶ——当たる。
防御する——砕かれる。
攻撃する——逸れる。
精度を落とす——防がれる。
何をしても。
どの道を選んでも。
敗北する未来へしか辿り着けない。
「《正道天》の内側では、拙僧が定めた唯一の正しさだけが現実となります」
ドゥ・マーガの声には、揺るぎない信仰が宿っていた。
「正しさとは、揺らいではならないもの。一分でも、一厘でも違えば、それは既に誤りです」
八つの光輪が回転を始める。
「寸分も違わぬ正しさだけが、人を迷いから救済する。拙僧は、そう信じております」
光輪から、膨大な魔力が溢れ出した。
ルシアの真紅の瞳が見開かれる。
勝利の選択肢がない。
いや。
生き残るための選択肢さえ、既に消されている。
「どうか、お示しください」
ドゥ・マーガが穏やかに微笑む。
「正しさを極めることで最強となったあなたが、正しさを捨てて、なお魔導師でいられるのかを」
八つの光輪が、ルシアへ狙いを定める。
「——《八正天路》」
光の奔流が放たれた。
その一瞬、世界が止まった。
ルシアの意識が、自分の内側へ沈んでいく。
◇
ルシアは天才だった。
物心がついた時には、既に大人の魔導師よりも精密に魔術を操ることができた。
火を灯すだけの簡単な魔術を、ほかの子供が何か月もかけて習得する傍らで、ルシアは一度見ただけで完成させた。
『この子は天才だ』
『魔界でも類を見ない才能だ』
『将来は間違いなく、偉大な魔導師になる』
褒められた。
称えられた。
だが、誰も近くには来なかった。
同年代の子供とは話が合わない。
大人たちは才能を見ているだけで、ルシア自身を見ていない。
天才は孤独だった。
だから、計算するようになった。
どう振る舞えば認められるのか。
——あえて、過激に振る舞い、子供っぽさを演出した。
何を言えば、相手が望む反応を返すのか。
——あえて、幼い態度を取ることで、親しみやすさを演出した。
どのように動けば、最適な結果を得られるのか。
——あえて、冷たく当たった後、優しく微笑んだ。
全てを計算で組み立てた。
人付き合いも、魔術と同じだった。
最適解を導き。
無駄を省き。
完璧な答えを出す。
それが、ルシアの生き方になった。
◇
やがて、リリスに出会った。
初めて、計算ではどうにもならない存在に出会った。
圧倒的だった。
リリスの前では、自分の計算など全て見透かされていた。
それでも、リリスは笑わなかった。
『ルシア。あんた、面白いね』
才能ではなく。
利用価値でもなく。
ルシア自身を見て、面白いと言った。
認められた。
計算ではない、本当の自分を。
リリスのために全てを捧げようと決めた。
それだけは、計算ではなく、本心だった。
◇
そして、零。
初めて零の魔術を見た瞬間、心が震えた。
見よう見まねで術式を模倣し、一度見ただけで本質を掴む。
あの金色の瞳が、未知の魔術を捉える時の輝き。
基礎術式を吸収する速度は、ルシアの想像さえ超えていた。
自分が何年もかけて磨き上げた技術へ、凄まじい速度で追いついてくる。
焦がれた。
恋焦がれた。
その才能に。
その瞳の輝きに。
そして、才能とは無関係な、計算とは無関係な、不器用な優しさに。
だが、ルシアは計算を捨てなかった。
毎晩、零の部屋を訪ねた。
少し薄暗く、人が心を開きやすい夜。
予定の確認を口実にして。
不安を吐露し、ほんの少しだけ弱い部分を見せて、指先を触れ合わせる。
計算していた。
魔物に襲われ、心身ともに弱っていた夜。
零に助けられ、傷ついた心を晒した。
零が突き放せない状況で、あの言葉を口にした。
『私を——上書きして』
あれは本心だった。
零に触れてほしかった。
恐怖の記憶を、零の温度で塗り替えてほしかった。
だが、その本心を伝えるタイミングまで、まったく計算していなかったと言えば嘘になる。
ほかの女が零へ近づいた時も。
拗ねた。
怒った。
時には認めるふりをした。
一人占めしようとするより、余裕を見せた方が、零の中で自分の立場を守れると考えた。
全部、計算。
完璧な計算。
最適解。
百点の恋愛戦略。
「……ああ」
ルシアは気づいた。
ドゥ・マーガの言葉が、脳裏に蘇る。
『精度を上げれば上げるほど、正しい軌道が一つに定まります』
『正解が一つしかない問題ほど、書き換えることは容易なのです』
自分は、魔術だけではない。
生き方そのものが、百点を目指してきた。
恋愛も。
人間関係も。
全てを計算し、最適解を出し続けてきた。
零への恋が本心であることに、嘘はない。
だが、その本心さえ、最も効果的な瞬間に、最も効果的な形で差し出そうとした。
百点の恋愛。
百点の魔術。
百点の自分。
だから、書き換えられる。
正解が一つへ定まるほど、《唯一正道》は強く作用する。
ルシアの生き方そのものが、ドゥ・マーガにとって最高の餌だった。
「……私は——」
光の奔流が迫る。
計算を手放せと言われている。
自分の全てを否定しろと言われている。
だが、計算を失った自分に、何が残る?
天才でなければ。
完璧でなければ。
誰が、自分を見てくれる?




