↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
108/117

第百六環 「正しさの檻」


——人界・西の尖塔。


ルシアは精度を落とした。


意図的に。


八十点の魔術を六十点へ。


六十点から、さらに五十点へ。


軌道をわざとぶらし、着弾点を無作為にずらす。魔力密度にもムラを作り、炎弾自身がどこへ飛ぶのか予測できない状態を生み出した。


不格好な炎弾が放たれる。


それを見たドゥ・マーガの眉が、僅かに動いた。


《天命杖(リジェクト)》が傾けられる。


だが、炎弾の軌道は変わらなかった。


逸らすべき「正しい道」が、最初から存在していない。


「届く——!」


不完全な炎弾がドゥ・マーガへ迫る。


しかし。


「……惜しい選択です」


ドゥ・マーガが杖を一振りした。


蒼い魔力の壁が展開され、不完全な炎弾を正面から受け止める。


炎は障壁へぶつかり、呆気なく霧散した。


「——ッ!」


分かっていた。


精度を落とせば、《唯一正道》による因果固定からは逃れられる。


だが、精度を落とした魔術では威力が足りない。


《四聖剣》であるドゥ・マーガの純粋な魔力障壁さえ、突破できない。


精度を上げれば、未来を固定される。


精度を下げれば、威力が足りない。


どちらを選んでも、勝てない。


「精度を極めても、あえて崩しても、あなたが拙僧へ届く道はありません」


ドゥ・マーガが杖を掲げる。


「それこそが、道諦の示す救済なのです」


ルシアの右脇腹へ、衝撃が走った。


「がッ——!」


見えなかった。


また、見えなかった。


倒れ込む。


立ち上がる。


その瞬間、左肩へ二撃目。


膝が折れる。


直後、背中へ三撃目。


鮮血が石畳へ飛び散った。


ルシアは、一方的に打ち据えられていた。


ドゥ・マーガの攻撃は、決して一撃で命を奪うほど強くない。


だが、必ず当たる。


ルシアの回避は、必ず失敗する。


そして、ルシアの攻撃は必ず届かない。


「あなたは優秀です」


ドゥ・マーガが、慈しむような目でルシアを見つめた。


「魔界最強の魔導師。その名に恥じぬ才覚をお持ちです。だからこそ、これ以上、誤った道を進む必要はありません」


《天命杖》が、天へ掲げられる。


空気が変わった。


尖塔を包む空間そのものが、別の法則へ書き換えられていく。


「神装——第二位階」


ドゥ・マーガの背後へ、八つの光輪が展開された。


黄金と蒼が交互に輝く巨大な円環。


一つ。


二つ。


三つ。


やがて八つの光輪が重なり、天上へ続く一本の道を描き出す。


「《正道天(エーカヤーナ)》」


世界から可能性が消えた。


ルシアの身体は動く。


魔力も使える。


それでも、何をしようとしても、その先にある結果が見えた。


右へ避ける——当たる。


左へ避ける——当たる。


上へ飛ぶ——当たる。


防御する——砕かれる。


攻撃する——逸れる。


精度を落とす——防がれる。


何をしても。


どの道を選んでも。


敗北する未来へしか辿り着けない。


「《正道天》の内側では、拙僧が定めた唯一の正しさだけが現実となります」


ドゥ・マーガの声には、揺るぎない信仰が宿っていた。


「正しさとは、揺らいではならないもの。一分でも、一厘でも違えば、それは既に誤りです」


八つの光輪が回転を始める。


「寸分も違わぬ正しさだけが、人を迷いから救済する。拙僧は、そう信じております」


光輪から、膨大な魔力が溢れ出した。


ルシアの真紅の瞳が見開かれる。


勝利の選択肢がない。


いや。


生き残るための選択肢さえ、既に消されている。


「どうか、お示しください」


ドゥ・マーガが穏やかに微笑む。


「正しさを極めることで最強となったあなたが、正しさを捨てて、なお魔導師でいられるのかを」


八つの光輪が、ルシアへ狙いを定める。


「——《八正天路》」


光の奔流が放たれた。


その一瞬、世界が止まった。


ルシアの意識が、自分の内側へ沈んでいく。



     ◇



ルシアは天才だった。


物心がついた時には、既に大人の魔導師よりも精密に魔術を操ることができた。


火を灯すだけの簡単な魔術を、ほかの子供が何か月もかけて習得する傍らで、ルシアは一度見ただけで完成させた。


『この子は天才だ』


『魔界でも類を見ない才能だ』


『将来は間違いなく、偉大な魔導師になる』


褒められた。


称えられた。


だが、誰も近くには来なかった。


同年代の子供とは話が合わない。


大人たちは才能を見ているだけで、ルシア自身を見ていない。


天才は孤独だった。


だから、計算するようになった。


どう振る舞えば認められるのか。


——あえて、過激に振る舞い、子供っぽさを演出した。


何を言えば、相手が望む反応を返すのか。


——あえて、幼い態度を取ることで、親しみやすさを演出した。


どのように動けば、最適な結果を得られるのか。


——あえて、冷たく当たった後、優しく微笑んだ。


全てを計算で組み立てた。


人付き合いも、魔術と同じだった。


最適解を導き。


無駄を省き。


完璧な答えを出す。


それが、ルシアの生き方になった。



     ◇



やがて、リリスに出会った。


初めて、計算ではどうにもならない存在に出会った。


圧倒的だった。


リリスの前では、自分の計算など全て見透かされていた。


それでも、リリスは笑わなかった。


『ルシア。あんた、面白いね』


才能ではなく。


利用価値でもなく。


ルシア自身を見て、面白いと言った。


認められた。


計算ではない、本当の自分を。


リリスのために全てを捧げようと決めた。


それだけは、計算ではなく、本心だった。



     ◇



そして、零。


初めて零の魔術を見た瞬間、心が震えた。


見よう見まねで術式を模倣し、一度見ただけで本質を掴む。


あの金色の瞳が、未知の魔術を捉える時の輝き。


基礎術式を吸収する速度は、ルシアの想像さえ超えていた。


自分が何年もかけて磨き上げた技術へ、凄まじい速度で追いついてくる。


焦がれた。


恋焦がれた。


その才能に。


その瞳の輝きに。


そして、才能とは無関係な、計算とは無関係な、不器用な優しさに。


だが、ルシアは計算を捨てなかった。


毎晩、零の部屋を訪ねた。


少し薄暗く、人が心を開きやすい夜。


予定の確認を口実にして。


不安を吐露し、ほんの少しだけ弱い部分を見せて、指先を触れ合わせる。


計算していた。


魔物に襲われ、心身ともに弱っていた夜。


零に助けられ、傷ついた心を晒した。


零が突き放せない状況で、あの言葉を口にした。


『私を——上書きして』


あれは本心だった。


零に触れてほしかった。


恐怖の記憶を、零の温度で塗り替えてほしかった。


だが、その本心を伝えるタイミングまで、まったく計算していなかったと言えば嘘になる。


ほかの女が零へ近づいた時も。


拗ねた。


怒った。


時には認めるふりをした。


一人占めしようとするより、余裕を見せた方が、零の中で自分の立場を守れると考えた。


全部、計算。


完璧な計算。


最適解。


百点の恋愛戦略。


「……ああ」


ルシアは気づいた。


ドゥ・マーガの言葉が、脳裏に蘇る。


『精度を上げれば上げるほど、正しい軌道が一つに定まります』


『正解が一つしかない問題ほど、書き換えることは容易なのです』


自分は、魔術だけではない。


生き方そのものが、百点を目指してきた。


恋愛も。


人間関係も。


全てを計算し、最適解を出し続けてきた。


零への恋が本心であることに、嘘はない。


だが、その本心さえ、最も効果的な瞬間に、最も効果的な形で差し出そうとした。


百点の恋愛。


百点の魔術。


百点の自分。


だから、書き換えられる。


正解が一つへ定まるほど、《唯一正道》は強く作用する。


ルシアの生き方そのものが、ドゥ・マーガにとって最高の餌だった。


「……私は——」


光の奔流が迫る。


計算を手放せと言われている。


自分の全てを否定しろと言われている。


だが、計算を失った自分に、何が残る?


天才でなければ。


完璧でなければ。


誰が、自分を見てくれる?

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。