第百五環 「正しすぎる魔術」
——人界・西の尖塔。
ルシアの指先から、紅蓮の炎が放たれた。
軌道。
速度。
魔力密度。
着弾時の爆発範囲。
標的が回避した場合に生じる余波まで計算に組み込み、周囲への損害を最小限に抑えながら最大の威力を叩き込む。
魔界最強の魔導師が放つ、精密かつ完璧な炎弾。
だが、ドゥ・マーガの身体へ届く寸前、炎弾の軌道が逸れた。
《天命杖》が、ほんの僅かに傾けられただけだった。
炎弾は、初めからそこへ向かうことが定められていたかのようにドゥ・マーガの脇を通過し、尖塔の壁へ吸い込まれる。
紅蓮の爆炎が壁面を焼いた。
「——ッ!」
ルシアは動揺を押し殺し、即座に次の魔術を組み上げた。
右前方。
左後方。
頭上。
三方向からの同時攻撃。
着弾時間を〇・三秒ずつずらし、最初の攻撃を避けた先へ、次の魔術が到達するように調整する。
全ての回避経路を潰す、連続精密射撃。
かつて、零へ教えた方法だった。
威力だけなら八十点。
そこへ術式の効率化と軌道制御を加え、九十点まで引き上げた魔術。
三つの炎弾が、異なる角度からドゥ・マーガへ迫る。
ドゥ・マーガは動かなかった。
蒼と黄金の混じる長衣を揺らすことさえなく、静かに杖を掲げている。
一発目が右へ逸れた。
二発目は僅かに上昇し、頭上を通過した。
三発目は速度そのものが不自然に落ち、ドゥ・マーガの眼前で床へ落ちた。
全て、外れた。
「とても精緻な術式です」
ドゥ・マーガが、柔らかく微笑む。
敵を嘲る笑みではない。
優秀な弟子の成長を喜ぶ師のような、穏やかな表情だった。
「魔力の一滴さえ無駄にせず、狙った結果へ寸分違わず到達させる。魔界最強の魔導師というお名前も、決して誇張ではないのでしょう」
「……褒めてるつもり?」
「もちろんです。拙僧は、正しき努力へ敬意を払っております」
ルシアの真紅の瞳が細められた。
「それでしたら、なぜ——」
ドゥ・マーガは、《天命杖》を石畳へ突いた。
「あなたの魔術は、正しすぎるのです」
静かな音が、尖塔の頂へ響いた。
「精度を上げれば上げるほど、魔術が辿るべき道は一つへ絞られます。速度、威力、角度、着弾点。全てが最適化されれば、そこに曖昧さは残りません」
杖の先端に、蒼と黄金の光が灯る。
「“正しい軌道”が一つに定まった状態。それこそが、拙僧の《唯一正道》にとって最も干渉しやすい未来なのです」
ルシアは返答せず、新たな術式を展開した。
九十点で届かないのなら百点へ。
魔力の無駄をさらに削ぎ落とす。
炎を構成する術式の一節一節を洗練し、僅かな揺らぎさえ排除する。
指先に灯った炎が、細く圧縮された。
熱が外へ漏れない。
揺らぎもない。
紅蓮の炎というより、空間を切断する一振りの刃。
魔導師として積み重ねた全てを注ぎ込んだ、完璧な一撃だった。
「——これなら!」
炎の刃が射出された。
先ほどまでとは比較にならない速度。
空気が焼けるよりも早く、ドゥ・マーガの喉元へ到達する。
しかし。
炎の刃は、あと数センチの距離で曲がった。
あり得ない角度だった。
速度を失わないまま直角に軌道を変え、ドゥ・マーガの首筋を避けて虚空へ消える。
ルシアの真紅の瞳が見開かれた。
ドゥ・マーガは一歩も動いていない。
「正解が一つしかない問題ほど、書き換えることは容易なのです」
その声が聞こえた直後。
ルシアの背中へ、衝撃が走った。
「がっ——!」
身体が宙へ浮いた。
何に攻撃されたのか分からない。
魔力の発生も。
攻撃が放たれた方角も。
何一つ感知できなかった。
ルシアの身体が壁へ叩きつけられる。
背中から肺の空気が押し出され、口元から血が溢れた。
「……何を……」
膝から崩れながら、周囲を見回す。
攻撃の痕跡がない。
ドゥ・マーガは、先ほどと同じ場所に立っている。
杖を振るった様子すらなかった。
「拙僧の攻撃は、あなたへ命中する」
穏やかな声で、結果だけが告げられる。
「そう定められた正道に、過程は必要ありません。前方から放つ必要も、あなたの認識できる速度で進む必要もないのです」
ルシアは壁へ手をつき、どうにか立ち上がった。
魔女帽子は既に吹き飛ばされている。
ダークレッドのツインテールは乱れ、黒いマントも大きく裂けていた。全身を覆う衣服にはいくつもの傷が走り、その下の肌へ血が滲んでいる。
それでも、真紅の瞳から戦意は消えていない。
——考えろ。
ルシアは歯を食いしばった。
感情のままに撃っても届かない。
精度を上げても届かない。
単純に数を増やしても、全てが逸らされる。
それどころか、精度を上げるほどドゥ・マーガの能力へ捕らえられやすくなる。
最適な角度。
最短の軌道。
最大効率の術式。
百点の答え。
それら全てが、ドゥ・マーガにとっては「唯一の正しい未来」として固定できる道になる。
「……精度を、上げちゃ駄目ってこと……?」
掠れた声が、ルシアの唇から漏れた。
自分で口にしておきながら、その答えを受け入れられない。
魔導師として磨き続けてきたもの。
魔力制御の精密さ。
戦況に対する最適解を瞬時に導き出す判断力。
無駄のない術式構築。
一度見た魔術を解析し、より完成された形へ昇華する才能。
ルシアが魔界最強の魔導師と呼ばれるに至ったその全て。
それらが、この男の前では弱点になる。
百点の魔術は、百点であるが故に答えが一つしかない。
一つしかないから《唯一正道》に支配される。
「ご理解いただけたようですね」
ドゥ・マーガが微笑んだ。
「あなたの魔術は、あまりにも美しい。魔力も、術式も、結果へ至る過程さえ、寸分の狂いなく整えられている」
その声には、偽りのない称賛が込められていた。
「だからこそ、拙僧はあなたへ試練を与えましょう」
《天命杖》が掲げられる。
黄金と蒼の光が絡み合い、尖塔の上空へ巨大な円環を形成した。
ルシアの肌を、冷たい感覚が這い上がる。
「正しさとは、揺らいではならないもの」
ドゥ・マーガの瞳に、静かな信仰が宿る。
「一分でも、一厘でも違えば、それは既に誤りです。寸分も違わぬ正しさだけが、人を迷いから救済する——拙僧は、そう信じております」
円環から、光の柱が降り注いだ。
ルシアが横へ跳ぶ。
だが、光は彼女が回避した先へ現れた。
「——ッ!」
咄嗟に十三枚の結界を重ねる。
一枚目が砕けた。
二枚目。
三枚目。
光は勢いを失うことなく、次々と結界を貫いていく。
十枚目。
十一枚目。
十二枚目。
そして——最後の一枚が砕けた。
僅かに威力を失った光が、ルシアの腹部を打った。
身体が床を跳ね、石畳の上を転がる。
「どうか、お示しください」
ドゥ・マーガの声が、遠く聞こえた。
「正しさを極めることで最強となったあなたが、正しさを捨てて、なお魔導師でいられるのかを」
ルシアは血の滲む唇を拭った。
真紅の瞳が、僅かに揺らいでいる。
魔術の精度を捨てる。
正解を選ばない。
それは、これまで積み上げてきた自分自身を否定することに等しかった。
だが、零との訓練が、脳裏を過った。
最初は三十点にも満たなかった、歪で不完全な炎。
それでも零は、何度も自分へ向かって撃った。
外れた。
暴発した。
予想外の方向へ飛んだ。
だが、その不完全な魔術の中には、完成された魔術にはない何かがあった。
予測できない揺らぎ。
正解へ収束しない、無数の可能性。
ルシアの指先に、小さな炎が灯った。
精密に制御しようとする意識を止める。
途端に炎が揺らぎ、形を崩した。
「……こんなの」
魔界最強の魔導師が使うには、あまりに不格好な炎。
十点。
いや、点数をつける価値すらない。
ドゥ・マーガの瞳が、初めて僅かに細められた。
ルシアは、震える指先の炎を見つめる。
正しい答えを一つに定めるから、支配される。
ならば。
最初から答えの存在しない魔術なら。
「……冗談じゃないわ」
ルシアが、ゆっくりと立ち上がった。
「積み上げてきたものを捨てるつもりなんて、ない」
不完全な炎を、掌で握り締める。
指の隙間から、制御されていない火の粉が零れ落ちた。
「でも——百点だけが、魔術じゃない」
真紅の瞳が、再びドゥ・マーガを捉えた。
「零に教えたのは、私よ」
揺らぐ炎が、少しずつ数を増やしていく。
どれも形が違う。
大きさも。
温度も。
飛ぶ方向さえ、ルシア自身には分からない。
「だったら今度は、私があいつから学ぶ番よ」
無数の不完全な炎が、西の尖塔を照らした。




