第百四環 「痛みを失った男」
——人界・北の尖塔。
白銀の光がダッカの身体へ触れた瞬間。
「やめろ」
低い声が落ちた。
《神母》から溢れる光が、ダッカの傷を癒していく。
《終焉剣》によって刻まれた傷だけではない。
戦いの中で負った傷。
四聖剣となる以前から、その身体へ残されていた無数の古傷。
さらに深く——肉体だけでなく、ダッカの人生そのものへ刻み込まれた痛みさえ、白銀の光は見つけ出していく。
「やめろ……」
ダッカが一歩、後退した。
いつも退屈そうに細められていた瞳が、大きく見開かれている。
「やめろ。やめろ、やめろ——」
声が震え始めた。
レイラは足を止めない。
《神母》から降り注ぐ慈悲は、傷ついた者を選別しない。
味方も。
敵も。
善人も、悪人も。
そこに痛みが存在する限り、等しく手を差し伸べる。
「ああああああッ!!」
ダッカが狂ったように叫んだ。
黒い大剣を振り回す。
だが、その刃はレイラへ向けられていなかった。
自分の周囲を滅茶苦茶に薙ぎ払い、迫る白銀の光を拒絶するように暴れ回る。
床が砕ける。
柱が斬り倒される。
回廊の壁が崩落し、石片が雨のように降り注いだ。
それでも白銀の光は止まらない。
破壊された石の隙間へ染み込むように広がり、ダッカを柔らかく照らし続ける。
「癒すなッ!」
叫びに宿っているのは、怒りではない。
恐怖だった。
「それを取るな! 私から、痛みを奪うなッ!!」
額から汗が噴き出し、大剣を握る両手が震えていた。
傷を癒されている。
苦痛から解放されようとしている。
本来ならば、それは救いであるはずだった。
だがダッカは、死を突きつけられた者のように怯えている。
レイラの白銀の瞳が、その精神の奥底を捉えた。
起源回帰によって研ぎ澄まされた知覚。
幻術師として、人の心を見続けてきた洞察力。
そして何より、同じように痛みを抱えて生きてきた者だからこそ、その正体が見えた。
ダッカの過去が、濁流のように流れ込んでくる。
◇
幼い少年だった。
痩せ細った身体。
傷だらけの背中。
薄暗く、冷たい石の部屋。
大人の拳が振り下ろされる。
頬を打たれ、少年の身体が床へ転がった。
立て、と命じられる。
立てなければ蹴られる。
立ち上がれば、また殴られる。
理由はなかった。
あるいは、少年には理解できなかった。
何度も。
何度も。
何度も。
——痛い。
声を上げれば、その声が気に障ると殴られた。
黙っていれば、生意気だと蹴られた。
——助けて。
心の中でどれほど叫んでも、誰も来なかった。
少年の精神は、少しずつ壊れていった。
昨日と今日の区別がつかなくなった。
自分の名前が分からなくなった。
なぜここにいるのか。
自分が本当に存在しているのか。
何も分からなくなっていく中で、少年は気づいた。
殴られた瞬間だけは、世界が鮮明になる。
骨が軋む痛み。
皮膚が裂ける熱。
肺から空気を押し出される苦しさ。
痛みを感じている間だけ、自分がここにいると分かる。
自分は、まだ生きている。
痛みだけが、少年と現実を繋いでいた。
やがて少年は成長し、力を得た。
自分を殴っていた者たちを、容易く殺せるほど強くなった。
それでも痛みを手放すことはできなかった。
傷が治れば、不安になった。
痛みが薄れれば、自分の輪郭まで曖昧になった。
だから、自ら過去の苦痛を再現し続けた。
古い傷を開き。
記憶の中の拳を呼び戻し。
何度も、何度も、あの日々を繰り返した。
そうしなければ、自分が誰なのか分からなくなる。
空っぽになる。
この世界から消えてしまう。
《万苦転写》。
それは単に、他者へ苦痛を与えるための力ではなかった。
自分の苦痛を世界へ刻みつけることで、自らの存在を証明するための力だった。
◇
レイラの意識が現在へ戻った。
「返せッ!」
ダッカは今も叫んでいる。
黒い大剣を床へ叩きつけ、白銀の光を振り払おうともがいていた。
「返せ! 私の痛みを返せ!!」
ダッカが大剣の切っ先を、自分の腕へ押し当てた。
刃が皮膚を裂く。
新たな傷によって、消えかけていた瞳へ一瞬だけ理性が戻る。
だが、白銀の光が、その傷さえ即座に塞いだ。
血が止まる。
痛みが消える。
再びダッカの瞳から、正気が失われていく。
「あ……ああ……」
黒い大剣が手から滑り落ち、甲高い音を響かせた。
「それがなければ——私は……僕は……!」
ダッカは頭を抱え、床へ蹲った。
自分が誰なのか。
どこにいるのか。
何のために戦っていたのか。
痛みと共に、その全てが崩れていく。
レイラは、ようやく理解した。
「……そう」
白銀の光を纏ったまま、一歩近づく。
「あなたも、痛みでしか、自分を保てなかったんだ」
ダッカが顔を上げる。
焦点の定まらない瞳が、レイラの姿を捉えた。
そこにいるのは、四聖剣第一席ではなかった。
冷たい石の部屋で、誰にも助けてもらえずに震えていた少年だった。
「……私も、同じだった」
レイラは静かに告げた。
「痛みの中にいれば、少なくとも何かを感じていられる。空っぽになるよりはましだって、そう思ってた」
幻術で相手を試し、傷つけられる前に遠ざけた。
孤独の中へ逃げ込み、笑顔の仮面で自分を守った。
形は違っても。
レイラもまた、過去の痛みに縋ることで自分を保っていた。
「でもね——」
ダッカの前へ膝をつく。
「痛みじゃなくても、自分を感じられる方法はある」
白銀に光る指先が、ダッカの頬へ触れた。
その瞬間、ダッカの身体が小さく震える。
痛みではない。
温度。
他者の手が、自分へ触れている。
傷つけるためでもなく。
存在を確かめるためでもなく。
ただ、自分がここにいると認めるための接触。
「誰かが触れてくれるだけで、自分がここにいるって分かるの」
ダッカの目が揺れた。
虚ろだった瞳に、ほんの僅かだけ光が戻る。
「……嘘だ」
掠れた声。
「痛み以外に何がある。痛み以外に——私を証明するものなど……」
「ある」
レイラは断言した。
静かに。
それでも、絶対の確信を込めて。
「私が、そうだったから」
零と交わした約束を思い出す。
小指へ残る、あの温度。
「ずっと痛みの中にいた。でも、あの人が手を伸ばしてくれた。それだけで、私は私に戻れた」
白銀の光が、二人を包み込んでいく。
終焉剣の呪いは完全に沈黙した。
ダッカの手から力が抜け、静かに地面へ落ちる。
レイラの言葉は届いた。
ほんの一瞬。
確かに、少年の心へ届いた。
だが。
痛みが、完全に消えた。
ダッカを現実へ繋ぎ止めていた、最後の一本の楔までも。
「……あ」
小さな声が漏れた。
光を取り戻しかけていた瞳が、再び揺らぐ。
その奥で。
これまで苦痛によって封じ込められていた何かが目を覚ました。
「私は……誰だ?」
ダッカが、ゆっくりと立ち上がる。
「ここは……どこだ?」
黒い大剣が震えた。
床へ落ちていたはずのラストリゾートが、自らの意思を持つように浮かび上がる。
「僕は——痛いのか?」
刃から、黒い血のような光が流れ出した。
レイラの白銀の光に触れても、それは消えなかった。
痛みではない。
痛みを失ったことへの恐怖。
空白。
自分という存在が崩れていく、底なしの虚無。
ダッカの口元が、歪に吊り上がった。
「痛くない」
笑っている。
だが、その瞳には何も映っていない。
「何も感じない」
尖塔全体が震え始めた。
壁に刻まれていた無数の傷。
床へ染み込んだ血。
この場所で死んだ者たちが、最後に感じた苦痛。
それら全てが、黒い光となってラストリゾートへ吸い寄せられていく。
「痛みがないなら、集めればいい」
ダッカが大剣を掲げた。
「世界中から。生きている者から。死んだ者から」
レイラの背筋に、冷たいものが走る。
先ほどまでとは、力の質が違う。
ダッカ自身の意志で制御された《万苦転写》ではない。
神装が主を呑み込み、失われた痛みを埋め合わせるために暴走している。
「神装——第二位階」
ダッカの声と、《最後の寄る辺》から響く無数の声が重なった。
「《苦獄天》」
世界が苦痛に染まった。
◇
悲鳴が響いた。
一人ではない。
幾千、幾万もの声。
この地で流された全ての血と、刻まれた全ての苦痛が、北の尖塔へ集められていく。
折られた骨の痛み。
焼かれた皮膚の痛み。
病に蝕まれた痛み。
心を裏切られた痛み。
愛する者を失った痛み。
《苦獄天》の中では、あらゆる苦痛が循環する。
一人が受けた傷は全員へ。
癒えた痛みは別の者へ。
誰かが苦しみ続ける限り、苦痛は決して消滅しない。
「——ッ!」
レイラの身体へ、無数の傷が刻まれた。
傷口を白銀の光が癒す。
だが、癒えたはずの苦痛は空間へ吸い上げられ、何倍にも膨れ上がって再びレイラへ戻ってくる。
皮膚が裂ける。
骨が軋む。
過去の記憶が、刃となって精神へ突き刺さる。
「無駄だ」
ダッカが笑っていた。
「癒せば、苦痛は巡る。巡った痛みは増え続ける。全部、俺僕のものだ」
既に、その声から本来のダッカは消えていた。
痛みを得ることだけを求める、空虚な獣。
レイラは膝をついた。
白銀の光で一つの傷を癒すたび、十の傷が生まれる。
十を癒せば、百の苦痛が返ってくる。
《神母》の慈悲が、逆に《苦獄天》を強めている。
「ほら」
ダッカが両腕を広げた。
「もっと癒せ。もっと苦しめ。僕に——痛みをくれ」
黒い大剣が振り下ろされる。
レイラは光の障壁で受け止めた。
衝撃で床が陥没し、両足が石畳へ沈む。
障壁へ亀裂が走る。
白銀の光が修復するが、その行為さえ新たな苦痛へ変換されていく。
「……違う」
レイラが呟いた。
「何が違う?」
「あなたが欲しいのは、痛みじゃない」
ダッカの笑みが止まった。
レイラは、流れる血を拭わずに立ち上がった。
「誰かに見つけてほしかった」
白銀の瞳が、ダッカの奥にいる少年を見据える。
「痛いって叫んだ時に、誰かに来てほしかった。自分がここにいるって、誰かに認めてほしかった」
「黙れ」
「痛みは、あなたの存在を証明してくれたんじゃない」
「黙れ」
ダッカの声が震える。
「誰も手を伸ばしてくれなかったから——痛みに縋るしかなかっただけ」
「黙れぇッ!!」
黒い大剣が横薙ぎに振るわれた。
回避しない。
レイラは両腕を広げたまま、一歩前へ出た。
刃が脇腹を切り裂く。
鮮血が舞った。
激痛に視界が白く染まる。
それでも、レイラは止まらなかった。
もう一歩。
ダッカの懐へ踏み込む。
そして。
その身体を抱き締めた。
「——っ」
ダッカの全身が硬直する。
痛みではない。
攻撃でもない。
誰かの腕が、自分を包んでいる。
自分の身体と、他者の身体の境界が分かる。
温かい。
「ここにいるよ」
レイラが囁いた。
「あなたは、ここにいる」
白銀の光が、二人を包み込んだ。
ダッカの痛みを消すのではない。
苦しんできた事実を、なかったことにするのでもない。
過去の傷を抱えたまま。
その痛みがなくても、今ここに存在しているのだと、魂へ刻み込む。
《苦獄天》の中に満ちていた悲鳴が、一つずつ静まっていく。
苦痛が癒される。
だが、もう循環しない。
レイラの光は痛みを奪うのではなく、その終着点となって受け止めていた。
戻す必要がない。
誰かへ押しつける必要もない。
苦痛は、レイラの慈悲へ触れた場所で、その役目を終えていく。
「馬鹿な……」
ダッカの瞳に、正気の光が戻った。
「苦痛が……消えていく……」
「消してないよ」
レイラの腕に力が籠もる。
「あなたが生きてきたことは、消えない」
《苦獄天》に亀裂が走った。
「でも——もう、痛み続けなくていい」
白銀の光が天を貫いた。
黒く染まっていた空間が砕け散る。
循環を失った無数の苦痛が、柔らかな光へ変わって昇っていく。
神装第二位階——《苦獄天》。
完全崩壊。
《終焉剣》に亀裂が走った。
黒い刃が砕け、破片が白銀の光へ溶けていく。
「……そうか」
ダッカの身体から力が抜けた。
「これが……触れられるということか」
大きな身体が、レイラへ預けられる。
「……温かいな」
その言葉を最後に、ダッカは意識を失った。
レイラは倒れ込む身体を支え、その場へ静かに座らせた。
白銀の瞳が、本来の緑色へ戻っていく。
長い金髪から光が消え、《神母》の力が収まる。
「……重いんだけど」
掠れた声で笑った。
仮面ではない。
誰かを試すためでもない、本当の笑顔だった。
「でも——生きてるね」
ダッカの胸は、微かに上下している。
レイラはその鼓動を確かめると、崩れかけた壁へ背を預けた。
北の尖塔を覆っていた黒い光が消え、雲の隙間から朝の光が差し込む。
四聖剣第一席——苦諦剣ダッカ。
撃破。
レイラは遠く離れた東の空を見上げた。
「……零」
小指へ残る温度を確かめるように、そっと指を握る。
「今度は——私が、手を伸ばせたよ」




