第百三環 「傷を抱いて立つ者」
——人界・北の尖塔。レイラの内面世界。
暗闇の中へ細い光が差し込んでいた。
レイラの意識は、自分の過去を漂っている。
ダッカの《万苦転写》によって掘り起こされた記憶。
これまでの人生で経験した全ての傷と苦痛が、何倍にも増幅され、現在の肉体へ刻まれていた。
だが今、南の尖塔で、クオンがメツ・ニローダを撃破した。
静寂鎌ニルヴァーナが砕け、《寂滅》によって希薄化させられていたレイラの存在が少しずつ本来の形を取り戻している。
失われていた魔力が身体の奥へ流れ込んでくる。
それでも、レイラは目を覚まさなかった。
目を閉じたまま、過去の中に立っていた。
◇
幼い頃の、ダークエルフの集落。
レイラは異端だった。
幻術の才。
それは、同族にとってさえ畏怖の対象となるほど強大だった。
感情が揺れれば、周囲へ存在しない景色を見せた。
泣けば、他人の悲しみまで引きずり出した。
怯えれば、その恐怖が幻となって集落を覆った。
幼いレイラには、それを制御する術がなかった。
『あの子には関わるな』
『何を考えているのか分からない』
『笑っているのに、目が笑っていない。気味が悪い』
『あれは、生まれた時から壊れているんだ』
声が聞こえていた。
聞こえないふりをしても、長い耳が全てを拾ってしまう。
幼いレイラは笑っていた。
誰に何を言われても。
どれだけ避けられても。
笑顔を貼りつけていた。
泣けば、また幻術が暴走する。
怒れば、もっと恐れられる。
だから笑った。
笑っていれば、少しだけ近くにいられるかもしれない。
いつか誰かが、この笑顔を本物にしてくれるかもしれない。
けれど、誰も手を伸ばさなかった。
◇
場面が変わる。
集落を出て、一人で魔界を放浪していた頃。
誰かに興味を持った。
近づいた。
その心を確かめるために、試した。
相手が隠している欲望や悪意を幻術で暴き、どこまで自分を受け入れられるのかを確認した。
そして、逃げられた。
何度も。
何度も。
『お前の目が怖い』
『心の中を覗くな』
『何を考えているのか分からない』
『気持ち悪い』
レイラは学んだ。
人を試すのは、自分を守るためだと。
先に相手の本性を暴いてしまえば、裏切られた時に傷つかずに済む。
最初から期待しなければ、失望することもない。
だから笑う。
だから揶揄う。
だから相手の心を覗き、反応を試す。
全部、これ以上壊れないための鎧だった。
◇
さらに、場面が変わった。
魔王城。
行く場所を失ったレイラが、リリスに拾われた日。
白銀の髪を揺らし、深紅の瞳で自分を見つめた魔王は笑った。
『——あんた、面白いね』
初めてだった。
怖がらず、気味悪がらず。
面白い、と言われたのは。
ルシアは初対面から噛みついてきた。
クオンは何も聞かず、隣で黙って飯を食べた。
シエラは酒瓶を片手に、夜の空へ誘ってきた。
少しずつ、居場所ができた。
それでもレイラは、完全には仮面を外せなかった。
怖かったから。
いつか、この場所からも遠ざけられるのではないか。
本当の自分を見せれば、皆も逃げていくのではないか。
その恐怖だけは、消えなかった。
◇
魔王城の中庭。
月明かりの下で、零の指がレイラの小指へ絡まった。
『——約束する。お前の存在を、取り戻す』
あの声。
あの目。
あの温度。
零は、逃げなかった。
幻術で試しても。
醜い過去を知っても。
笑顔の下に隠していた恐怖を見せても。
零はただ、そこにいた。
「……零」
レイラの唇が、その名前を紡いだ。
あの夜。
医務室で精神を接続し、零の記憶が流れ込んできた瞬間。
零の孤独を知った。
零の痛みを知った。
一華を奪われ、それでも復讐のために立ち続ける覚悟を知った。
そして、世界からレイラの存在が消されても、リリスと零だけは彼女を忘れなかった。
リリスは、魔王としての圧倒的な存在によって《寂滅》へ抗った。
だが、零は違う。
まだ魔王ではない。
それでも、心を繋いだ記憶と交わした約束を手繰り寄せ、レイラを見つけてくれた。
世界の認識が否定しても。
自分の記憶すら曖昧になっても。
零だけは、小指に残された温度を離さなかった。
「……ずるいよ、零」
涙が落ちた。
仮面の下に隠していた、本当のレイラが泣いていた。
試すことも。
揶揄うことも。
笑って誤魔化すこともできない。
誰にも見せたくなかった、剥き出しの自分。
怖かった。
消えることが。
忘れられることが。
自分が生きていた痕跡さえ、どこにも残らなくなることが。
それでも零は覚えていてくれた。
絡めた小指の温度を、今も覚えている。
「……私は」
レイラの緑色の瞳が、ゆっくりと開いた。
戻ってきた魔力が、身体の奥底で渦を巻く。
ダッカの《万苦転写》が刻んだ傷は、今も全身を蝕んでいる。
過去の痛みも消えていない。
傷つけられた事実も。
拒絶され、孤独に震えた日々も。
何一つ、なかったことにはできない。
ならば、偽物の幸福で上書きするのではなく。
痛みも、孤独も、全て自分の一部として抱えて立つ。
それらがあったからこそ、今の仲間たちと出会えた。
零が差し伸べてくれた手を、掴むことができた。
「——もう、逃げない」
レイラの唇が笑みを刻む。
相手を試すための仮面ではない。
本物の笑顔だった。
◇
——人界・北の尖塔。
ダッカの黒い大剣が振り下ろされる。
床へ倒れていたレイラの首を断ち切る、致命の一撃。
その寸前。
白銀の光が、レイラの身体から溢れ出した。
黒い刃が停止する。
ダッカの腕が、見えない何かに押し返された。
「——何?」
レイラは、血に濡れた床へ手をついた。
震える膝を立て、一歩ずつ立ち上がっていく。
全身の傷は消えていない。
痛みも残っている。
それでも、もう蹲らない。
白銀の光が、長い金髪を照らした。
くすんでいた髪が淡い輝きを帯び、緑色だった瞳が白銀へ染まっていく。長い耳の先端に、命の脈動を思わせる光が灯った。
レイラは、静かに言葉を紡いだ。
「慈悲は、強いられるものにあらず」
白銀の光が、尖塔の暗闇を押し退ける。
「天より降る優しき雨のごとく——傷つく者へ注がれる」
これは痛みを消し去るための祈りではない。
傷ついた事実を否定する力でもない。
痛みを受け入れたうえで。
なお、生きようとする者へ手を差し伸べる——原初の慈愛。
「原初真名——《神母》」
レイラの背後に、巨大な白銀の光輪が開いた。
「——《起源回帰》」
光が爆発的に膨張した。
尖塔全体が、白銀に染め上げられる。
広がり続けていたレイラの傷が止まった。
《終焉剣》によって刻まれた呪いが、光に触れた端から解けていく。
ダッカが、初めて後退した。
「……馬鹿な」
自身の腕を見下ろす。
そこに残されていた古い傷が消え始めていた。
「《万苦転写》が、無効化されている……?」
「無効化じゃない」
レイラが一歩、踏み出す。
白銀の瞳には、敵意も憎悪もなかった。
「癒してるの」
その声は、どこまでも穏やかだった。
「あなたの痛みも——全部」




