第百ニ環 「愛という名の渇き」
——人界・東の尖塔。シエラの内面世界。
暗い。
何も見えない。
何も聞こえない。
自分が立っているのか、座っているのか。それすら分からない闇の中で、シエラは膝を抱えて蹲っていた。
だが見えていた。
閉ざされた意識の外側で、自分の身体が何をしているのか。
誰を傷つけようとしているのか。
漆黒の竜と化した肉体。その金色の瞳を通して、全てが見えていた。
零。
番。
愛する人。
自分が生涯を懸けて傍にいると決めた、ただ一人の相手。
その零へ向けて、巨大な前脚が振り下ろされる。
「——やめて」
声にならない声が、暗闇へ落ちた。
零は《無窮蛇装》に包まれた両腕を交差させ、竜の一撃を受け止めた。
衝撃によって石畳が陥没する。
漆黒の装甲に亀裂が走り、零の膝が砕けた床へ沈んだ。
「やめて……!」
シエラは頭を振った。
だが、竜の肉体は止まらない。
零への欲が、際限なく溢れ出していた。
誰にも渡したくない。
ルシアにも。レイラにも。クオンにも。そしてリリスにも。
自分だけを見てほしい。
もっと触れたい。もっと近くにいたい。
その声を。
温度を。
匂いを。
全て自分だけのものにしたい。
零の身体に他の誰かの匂いが残っているだけで、胸の奥を焼くような苛立ちが湧き上がる。
抱き締めたい。
抱き潰してしまいたい。
守りたい。
どこにも行けないように、その翼の内側へ閉じ込めたい。
愛欲。独占欲。所有欲。そして、番を求める竜族の本能。
それら全てがシュウ・ザムダの《渇愛》によって百倍、千倍に増幅され、理性の壁を完全に突き破っていた。
「私は、こんなに……」
知っていた。
自分が零を好きなのだと。
番だと認めた時から、竜族としての本能が、どれほど深く零を求めているのかも分かっていた。
それでも、これまでは愛だった。
傍にいるだけで心が満たされる、温かい感情だった。
今は違う。
歪んでいる。
壊れている。
愛が、暴力へ変えられている。
再び竜の前脚が振り上げられた。
零が身を翻す。爪が石畳を粉砕し、飛び散った破片が漆黒の装甲を叩いた。
零は反撃しない。
概念操作を用いれば、竜の攻撃方向を変えることもできるはずだった。背後で槍を構えるシュウ・ザムダへ、竜の爪や尾を誘導することもできる。
だが、零はそれをしなかった。
シエラの身体を、武器として扱わなかった。
「……最低」
涙が、暗闇へ落ちた。
「私、零を壊そうとしてる」
好きだから。
好きすぎるから。
その感情を利用され、零を傷つけている。
これが起源帰りの代償。
かつて零へ告げたことがある。
起源へ近づきすぎれば理性を失い、敵も味方も分からなくなる、と。
だが、番を前にした起源帰りが、これほど残酷なものになるとは思わなかった。
愛していればいるほど。
求めていればいるほど。
——その相手を壊してしまう。
「零……逃げて」
シエラは蹲ったまま、祈るように呟いた。
「お願い。私から、逃げて……」
それでも、心のどこかでは分かっていた。
あの人は、絶対に逃げない。
◇
竜の尾が、横薙ぎに振るわれた。
零は崩れかけた床を蹴り、紙一重で飛び越える。
その着地点を赤黒い穂先が待ち受けていた。
「——ッ!」
身体を捻ったが、完全には避けられない。
魔槍クレイヴィングが無窮蛇装の肩口を掠め、装甲の隙間から血が飛んだ。
浅い傷。
だが、槍が触れた瞬間、熱い何かが零の精神へ流れ込んだ。
脳が焼ける。
心臓が跳ね上がる。
——殺したい。
アルトリウスを。
一華を奪った王を。
その命令に従い、笑いながら妹を踏みにじった兵士たちを。
押さえ込んでいた憎悪が蓋を突き破り、全身を満たしていく。
「叛逆の勇者さんよ。聞こえるか?」
シュウ・ザムダが赤黒い槍を肩に担ぎ、口元を歪めた。
「聞こえるだろ。あの竜のお前を欲しがる声が」
普段と変わらない、どこか軽薄な口調。
だが、その瞳だけは笑っていなかった。
零の動きが僅かに鈍る。
復讐心だけではない。
もっと深い場所から、別の欲が湧き上がってくる。
支配したい。
跪かせたい。
一華が味わった以上の苦痛を、アルトリウスへ与えたい。
殺すだけでは足りない。
同じ絶望を与え、その尊厳を壊し、命乞いをさせてから———
漆黒の竜が突進してきた。
思考を欲望に囚われ、零の反応が一瞬遅れる。
巨大な前脚が胸を打った。
鈍い衝撃が全身を貫く。
「がっ——!」
零の身体が吹き飛び、瓦礫の山へ叩きつけられた。
無窮蛇装の胸部に、新たな亀裂が走る。内側から込み上げた血を、零は地面へ吐き出した。
「分かるか?」
ザムダが、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「愛ってのは、綺麗なだけのもんじゃねえ。欲しいから手を伸ばす。自分のものにしたいから縛りつける。誰にも奪われたくねえから、邪魔な奴を壊す」
赤黒い槍の穂先が、零へ向けられた。
「愛の根っこにあるのは、欲だ」
零の視界が歪む。
違う。
そう否定しようとした。
だが、身体が動かない。
《渇愛》が、零の内側を掻き回している。
一華の顔が浮かんだ。
守れなかった妹。
目の前で奪われ、二度と声を聞くことのできなくなった家族。
守りたかった。
取り戻したかった。
一華が生きていた時間へ戻りたかった。
それは、愛か。
それとも、自分の願いを満たすための欲なのか。
「お前の中にも、腐るほどあるじゃねえか」
ザムダが嗤った。
「復讐、実に立派な渇愛だ。王を殺したい。苦しめたい。失ったものの代わりに、あいつから全部奪いたい。その欲望がお前をここまで連れてきた」
槍の穂先が、零の喉元へ突きつけられる。
だがその瞬間、ザムダの笑みが消えた。
「欲望だけが、人を成長させる」
突然、声から軽薄さが消えた。
低く、静かで、信仰を語る者の声だった。
「何かを望まなければ、人間は一歩も前へ進まねえ。強さも、愛も、復讐も同じだ。欲望を否定する奴は、自らの生まで否定してる」
漆黒の竜が咆哮した。
番を求める金色の瞳が、零だけを映している。
「だから、委ねろ」
ザムダが再び笑う。
「お前も、あの竜も、欲しいものを欲しいと言えばいい。壊して、奪って、満たされるまで喰らい続けろ」
零は膝をついたまま、右手を握った。
爪が掌へ食い込む。
リリスとの三日間が、脳裏を過った。
怒りを消すな。
怒りの中で、冷静になれ。
だが、《渇愛》が増幅しているのは怒りだけではない。
その奥に存在する、零自身の願い。
一華を取り戻したいという、決して叶わない欲。
アルトリウスを殺しても、一華は帰ってこない。
そんなことは、最初から分かっていた。
それでも、零はここまで来た。
「……確かに」
掠れた声が漏れた。
ザムダが眉を上げる。
「俺は、あの王を殺したい」
欲望を、否定しない。
「殺しても、一華が戻らないことは分かってる。それでも俺は、あいつを許さない」
金色の瞳が、ゆっくりと上がった。
欲に呑まれることと。
自分の欲を認めることは同じではない。
だが、その答えへ辿り着くより早く。
漆黒の竜が再び地を蹴った。




