第百一環 「届かぬ声」
——人界・第三城壁前。
リリスが目を開いた。
深紅の瞳が、南方へ向けられる。
白銀の髪が、遠く離れた場所から届いた魔力の余波に揺れていた。
第三城壁周辺では、魔界軍と人界軍の睨み合いが続いている。
それでもリリスの意識は、遥か南方、静寂院尖塔で起きた異変を正確に捉えていた。
《寂滅天》の消滅。
《静寂鎌》の破壊。
そして、その直前に放たれた黄金の存在圧。
「クオン。やったわね」
その声には、僅かな驚きが混じっていた。
リリスの魔力探知が捉えたもの。
それは起源回帰による闘気とは、明らかに性質が異なっていた。
自らの存在を世界へ刻みつけ、他者からの干渉を拒絶する——王の力。
魔界の頂点に立つ器を持つ者だけが放つ、絶対的な存在圧。
「魔王の卵……まさか、あの子がこの戦いで目覚めるなんてね」
リリスの口元に、静かな笑みが浮かぶ。
驚き。
誇らしさ。
そして、自らの庇護下にいた者が同じ領域へ足を踏み入れたことへの、ほんの僅かな寂しさ。
だが、それ以上に嬉しかった。
無口で、戦うことしか知らなかった鬼族の少女。
かつては強敵を求め、本能のままに拳を振るっていたクオンが、自らの存在を王の領域まで高めた。
「本当に……強くなったわね」
呟いた直後。
リリスの表情から、笑みが消えた。
意識が、北方へ向けられる。
「——レイラ」
北方の刑罰塔。
ダッカの『万苦転写』によって過去の苦痛を引きずり出され、瀕死にまで追い込まれているレイラ。
《終焉剣》によって刻まれた傷は、今も広がり続けている。
しかし。
リリスの魔力探知が、レイラの中で起きた小さな変化を捉えた。
「……戻ってきてる」
消えかけていた魔力。
存在そのものが不安定だったため、以前の半分以下まで低下していたレイラの力が、少しずつ本来の濃度を取り戻している。
「レイラの魔力が……戻り始めてる」
《静寂鎌》は破壊された。
メツも敗北した。
それは、神装を通して世界へ刻まれていた『寂滅』の効果が、その力を失い始めたことを意味する。
レイラの存在の希薄化。
仲間たちの記憶からの消失。
治癒を拒み、彼女を蝕み続けていた傷。
すべてが即座に元へ戻るわけではない。
既に失われたものは、簡単には蘇らない。
それでも、回復は確かに始まっている。
「まだ、完全じゃない」
リリスの瞳が、計算するように細められた。
「ニルヴァーナが砕けても、刻まれた消失が一瞬でなくなるわけじゃない。でも、このまま存在が安定すれば、本来の幻術を使える」
『万苦転写』が過去の記憶を現在へ引きずり出す能力なら、幻術によって過去と現在の境界を再構築できる可能性がある。
だが、苦痛を偽物の記憶で塗り潰すだけでは、ダッカには勝てない。
それでは、レイラが歩んできた人生そのものを否定することになる。
レイラが乗り越えるべきものは、過去の消去ではない。
過去の傷を自分の一部として受け入れながら、それでも現在を生きると選ぶこと。
その意志を幻術の核にできた時、『万苦転写』は、レイラを苦しめるだけの力ではなくなる。
「気づきなさい、レイラ」
リリスは北方の尖塔を睨んだ。
「偽物を作ることだけが、幻術じゃない。あんたなら、自分が選んだ現実を、本物にできる」
だが、時間がない。
《終焉剣》による傷は、今も広がり続けている。
存在が回復する速度よりも、身体が限界へ達する方が早い可能性もある。
零を向かわせるか。
一瞬だけ、そう考えた。
しかし、零は今、東方の尖塔にいる。
『渇愛』によって完全竜化したシエラを止められるのは、番である零だけ。
ここで北へ向かわせれば、シエラの理性が完全に失われる。
それに。
「違うわね」
リリスは、自分の考えを否定した。
レイラがダッカを倒すためには、零に救われるだけでは駄目だ。
過去の苦痛も。
存在を失った恐怖も。
誰かに覚えていてほしいと願う弱さも。
そのすべてと向き合い、レイラ自身の意志で立ち上がらなければならない。
四聖剣は、相手の弱みを抉り出す。
ならば、その剣を乗り越えるのも、四座自身であるべきだ。
「零。シエラだけを見てなさい」
届かないと分かりながら、東方へ向けて呟く。
「北は、レイラが自分で立ち上がる」
一つの戦いが終わった。
残る戦場は、三つ。
西方——起源回帰を果たしても攻撃が届かない、ルシア。
東方——『渇愛』に呑まれ、完全竜化したシエラ。
北方——過去の苦痛によって、立つ力を奪われたレイラ。
全員が、限界へ近づいている。
それでも、リリスの瞳に諦めはなかった。
「あんたたちは、私の四座よ」
深紅の瞳が、三つの戦場を見据える。
「その程度の絶望、自分で食い破ってみせなさい」
◆
同時刻——人界東方、歓楽宮尖塔。
零の右手首が、漆黒の光を放った。
夢幻抱擁が激しく脈動する。
同調率が臨界を突破。
ブレスレットから溢れ出した無数の黒い鱗が右腕を這い上がり、胸部、腹部、両脚へ広がっていく。
漆黒の鱗が噛み合い、零の全身を覆う鎧へと変化した。
「神装第二位階——《無窮蛇装》」
第二位階が完成した——その瞬間。
漆黒竜の巨大な前脚が、零の頭上から振り下ろされた。
衝撃。
零は両腕を交差させ、真正面から受け止めた。
直後。
足元の石床が爆発する。
身体が床へめり込み、膝が砕けた石材の中へ沈んだ。
漆黒の鱗が軋む。
《無窮蛇装》の両腕に、細い亀裂が走った。
「——っ、ぐ……ッ!」
肺から空気が押し出される。
防御した腕の骨が軋み、全身を内側から押し潰されるような重圧が襲った。
桁が違う。
クオンの起源回帰とは、何度も拳を交えてきた。
通常時の数倍に跳ね上がる膂力。
存在圧だけで概念操作を弾き、零の防御を正面から破壊する力。
あれも十分に規格外だった。
だが、完全竜化したシエラは、その比ではない。
二十倍。
あるいは、三十倍。
竜族の起源回帰は、鬼族のそれとは次元が異なる。
しかも、今のシエラには力を抑える理性がない。
本能のまま、肉体が壊れることさえ考えず、原初の竜が持つ力を振るっている。
零は腕を交差させたまま、力の向きを逸らした。
前脚が横へ滑り、石床を粉砕する。
拘束から逃れた零が、陥没した床から飛び出した。
漆黒竜が、再び前脚を振り上げる。
零は横へ転がった。
巨大な爪が、つい先ほどまで身体があった場所へ突き刺さる。
直撃は避けた。
だが、衝撃波までは躱せない。
「——ッ!」
零の身体が宙へ吹き飛ばされた。
半壊した欄干を越え、塔の外へ投げ出される。
空中で身体を捻り、右手を外壁へ伸ばした。
「摩擦——増幅!」
漆黒の指先が石壁へ吸いつく。
右腕へかかる負荷を減衰し、身体を塔へ引き戻す。
外壁を蹴り、円形広場へ着地した。
漆黒竜の黄金の瞳が、即座に零を捉える。
逃がさない。
番を自分のもとへ連れ戻そうとする本能が、シエラの巨体を突き動かしている。
「攻撃威力——減衰」
迫り来る前脚へ、概念干渉を重ねた。
巨大な脚を包む魔力が揺らぎ、攻撃に込められた力が削がれていく。
三割。
それ以上は落とせない。
起源回帰したシエラの存在圧が、概念干渉そのものへ抵抗している。
前脚が振り下ろされる。
零は受け止めず、斜め前方へ踏み込んだ。
爪の内側へ潜り込み、紙一重で回避する。
直後。
漆黒竜の頭上へ跳躍した。
「シエラ!」
呼びかけながら、右手を伸ばす。
角へ触れれば。
番である零の手が触れれば、僅かでも本能を鎮められるかもしれない。
だが、指先が届く直前。
シエラが激しく首を振った。
黒い竜角が、零の脇腹へ直撃する。
「がっ——!」
《無窮蛇装》の鱗が砕けた。
零は塔の反対側まで弾き飛ばされ、石柱へ背中から叩きつけられる。
石柱が折れ、身体が瓦礫の中へ落下した。
「……っ、まだだ」
血の混じった息を吐き、立ち上がる。
《無窮蛇装》と概念減衰を重ねていなければ、今の一撃だけで胴体を両断されていた。
漆黒竜が天を仰ぐ。
番に触れられなかった苛立ちを吐き出すように、咆哮した。
巨大な翼が広がる。
巻き起こった暴風が、半壊した塔へ襲いかかった。
離れた場所に立っていたシュウ・ザムダも、《魔槍》を石床へ突き立てる。
その直後。
漆黒竜の尾が、横薙ぎに振るわれた。
巨大な尾が石柱を三本まとめて粉砕し、瓦礫と衝撃波が広場全体へ飛び散る。
シュウ・ザムダの顔から、笑みが消えた。
「——っ!」
魔槍を引き抜き、飛来する瓦礫を薙ぎ払う。
赤黒い穂先と衝撃波が激突し、シュウ・ザムダの身体が数メートル後退した。
「おいおい……余波だけでこれかよ」
両手に痺れが残っている。
それでも、男は再び軽薄な笑みを浮かべた。
「ちょっと育てすぎたか?」
漆黒竜の黄金の瞳が、シュウ・ザムダへ向けられる。
番である零の近くにいる——排除すべき異物。
喉の奥に、漆黒の竜炎が集束し始めた。
「……いや、ちょっとどころじゃねえな」
シュウ・ザムダが、魔槍を構え直す。
その声から軽薄さが消えた。
「完全に制御を外れてやがる」
漆黒の竜炎が放たれた。
シュウ・ザムダが横へ跳ぶ。
黒い炎が石床を焼き払い、そのまま歓楽宮尖塔の一部を飲み込んだ。
塔が大きく揺れる。
焼かれた石材が融解し、支えを失った外壁が地上へ崩落していく。
零は走りながら、状況を分析していた。
暴走したシエラは、敵と味方を区別できない。
シュウ・ザムダも、攻撃対象に含まれている。
この状況は利用できる。
シエラの攻撃を誘導し、シュウ・ザムダへぶつける。
そうすれば、零が直接戦わなくても四聖剣へ傷を負わせられる。
しかし。
(駄目だ)
零は、その選択肢を即座に捨てた。
今のシエラには、加減ができない。
攻撃を誘導すれば、シュウ・ザムダだけでなく、眼下で戦う兵士や街の住民まで巻き込む可能性がある。
何よりシエラを、敵を倒すための道具として扱うことになる。
それでは、人の心を操り、道具として使い潰すアルトリウスと同じだ。
利用するのではない。
シエラを、止めなければならない。
漆黒竜が、再び零へ突進する。
黄金の瞳が、番を求めて輝いていた。
近づきたい。
触れたい。
自分だけのものにしたい。
だが、強すぎる力を制御できず、近づこうとするほど、零を傷つけてしまう。
「シエラ——!」
零が叫ぶ。
漆黒竜の動きが、一瞬だけ止まった。
黄金の瞳が揺らぐ。
番の声。
番の匂い。
本能の奥底に押し込められた理性が、確かに反応している。
僅かに開いた口から、苦しげな吐息が漏れた。
『渇愛』に抗い、何かを伝えようとしている。
だが、次の瞬間。
《魔槍》が脈動した。
シエラの内側で、零への欲望がさらに増幅される。
黄金の瞳に浮かんでいた青い光が、再び掻き消された。
「——ォオオオオオオオッ!」
漆黒竜が、苦痛に満ちた咆哮を上げる。
巨大な爪が石床を抉り、零へ飛びかかろうとした。
「さて——番の少年」
シュウ・ザムダが魔槍を肩へ担ぐ。
先ほど竜炎に狙われたにもかかわらず、その口元には再び愉快そうな笑みが浮かんでいた。
「お前に、あの竜を止める手段があるのか?」
零の金色の瞳がシュウ・ザムダを睨んだ。




