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第百環 「手放さない」


——人界・南方、静寂院尖塔。


白く塗り潰された《寂滅天》の中で、虚無の刃がクオンの右腕を斬った。


「——っ」


痛みは、ほとんどなかった。


血も流れていない。


ただ、刃が通過した箇所だけが色を失い、右腕の輪郭が僅かに透けている。


指先の感覚が鈍った。


黒い大戦斧を握っているはずなのに、その重さが分からない。


だが、消えたのは感覚だけではなかった。


右腕で初めて斧を振るった日の記憶。


幼い頃から何千、何万回と繰り返してきた素振り。


手の皮が破れ、血を流しながらも武器を握り続けた鍛錬の日々。


右腕へ刻み込まれていたはずの戦いの記録が、霧に包まれるように曖昧になっていく。


大戦斧を振り下ろす。


しかし、僅かに軌道がずれた。


これまで無意識に行えていたはずの力の伝え方を、身体が思い出せない。


メツは、その隙を見逃さなかった。


白い領域へ溶け込むように姿を消し、クオンの左脇腹を大鎌で掠める。


また一つ、何かが消えた。


魔王城の食堂。


長いテーブルを皆で囲み、山盛りの肉料理を食べていた記憶。


どんな味だったのか。


誰が隣に座っていたのか。


何を話していたのか。


楽しかったはずの時間から、色と音だけが抜け落ちていく。


「——ッ!」


クオンが戦斧を横薙ぎに振るう。


メツは僅かに身を屈めて回避し、返した鎌でクオンの太腿を切り裂いた。


足の感覚が失われる。


同時に、ダークレッドの髪をした魔女の姿が、記憶の中から霞んだ。


ルシア。


訓練場で言い争った日の記憶。


何を言われたのか。


自分がどう言い返したのか。


思い出せない。


彼女の怒った声も、呆れた顔も白い闇に呑まれていく。


「……なるほど」


クオンは大戦斧を支えに、辛うじて踏み止まった。


深紅の瞳が、静かにメツを見据える。


「これが——お前の力か」


《寂滅天》の内部にいるだけで、存在圧は削られ続ける。


さらに《静寂鎌ニルヴァーナ》で斬られるたびに、肉体の感覚と記憶が失われていく。


力が消える。


経験が消える。


思い出が消える。


やがては自分の名前すら分からなくなり、最初から存在しなかったものとして、完全な無へ還る。


クオンは、ようやく理解した。


「……怖かっただろうな」


メツの動きが、ほんの僅かに止まる。


「何?」


「レイラだ」


消えかけた記憶の中から、その名を掴み取る。


「あの夜……お前の鎌に斬られた」


仲間たちの記憶から、自分の存在が消えていく。


誰にも気づかれない。


名前を呼んでもらえない。


共に過ごした時間さえ、なかったことにされる。


その孤独と恐怖を、レイラは一人で耐えていた。


「レイラ……お前は、これを耐えたのか」


怒りが湧き上がる。


仲間を傷つけたメツへの怒り。


存在を消すことを救いと呼ぶ男への怒り。


赤黒い存在圧が膨れ上がり、《寂滅天》を押し返す。


「お前は——許さない」


クオンが床を蹴る。


大戦斧を振り上げ、メツへ叩き込む。


メツは大鎌の柄で受け流した。


漆黒と虚無が激突する。


クオンは身体を回転させ、その勢いのまま二撃目を放つ。


だが——


《静寂鎌ニルヴァーナ》が、クオンの胸元を横薙ぎに通過した。


「——ッ!」


胸部の赤黒い紋様が、音もなく消えた。


その瞬間。


クオンの中から、怒りが失われた。


メツを倒したいという感情が薄れる。


レイラを傷つけられた憤りも。


仲間を守りたいという衝動も。


燃え上がっていた感情が、虚無へ溶けるように消えていった。


怒りという燃料を失い、存在圧が急激に弱まる。


鬼角の輝きが曇り、深紅の瞳から光が失われていく。


「感情も消える」


メツの声が、白い領域の中へ響く。


「怒りも、悲しみも、仲間への想いも……この鎌の前では意味を持たない」


「……あ」


「お前を、この世界へ繋ぎ止めていた感情は消えた」


クオンは動けなかった。


なぜ戦っていたのか、分からない。


目の前の男を倒す理由も。


誰かを守ろうとしていたことも。


薄れていく。


起源回帰《羅刹》が、少しずつ解除されていった。


赤黒い紋様が消え、深紅だった瞳が元の薄橙色へ戻りかけている。


《寂滅天》が、弱まったクオンの存在を呑み込む。


足元が透ける。


名前。


過去。


仲間。


自分という存在を形作っていたすべてが、白い虚無へ剥がれ落ちていった。


「次は——お前の名前を消す」


メツが大鎌を振り上げる。


「名を失えば、お前は二度と自分へ戻れない」


クオンの視界が、白く霞んでいく。


私は、誰だ。


なぜ、ここにいる。


何を守ろうとしていた。


何も分からない。


何も感じない。


何も残っていない。


だが。


心の最も深い場所に一つだけ、消えていないものがあった。


拳の感触。


全力で拳を打ち込み、それを受け止められた感触。


零と殴り合った、訓練場。


何度倒れても立ち上がり、互いの限界を越えようとした時間。


全力でぶつかり合った時に感じた、胸の高鳴り。


それだけが、《寂滅天》の中でも鮮明に残っていた。


「…………あぁ」


消えかけた意識の中で、クオンは笑った。


もう一度、戦いたい。


あいつと。


天津零と。


全力で拳を交えたい。


汗を流し、傷だらけになりながら、互いに強くなり続けたい。


戦いが終わった後も、その隣にいたい。


同じ食卓を囲みたい。


同じ景色を見たい。


零が別の誰かと戦っているなら、その背中を見ていたい。


そして、いつかもう一度、自分だけを見てほしい。


それは、戦士として強者を求める本能なのか。


違う。


ただ戦いたいだけなら、零でなくてもいいはずだ。


強者なら、他にもいる。


それでも、クオンが求めているのは、零だけだった。


零と戦いたい。


零の隣にいたい。


零に、自分の存在を覚えていてほしい。


「——そうか」


消えかけていた瞳に、再び深紅の光が宿る。


「これは、恋なのか」


その言葉を口にした瞬間。


クオンの心臓が、大きく脈打った。


ようやく自覚した、たった一つの想い。


不器用で。


言葉にすることさえ知らず。


戦いという形でしか表せなかった感情。


それでも確かに、クオン自身が選び、育ててきた想い。


誰かに与えられたものではない。


本能に命じられたものでもない。


クオンだけの、恋。


「手放したくない」


右手が、黒い大戦斧の柄を握り直す。


「この想いだけは、消させない」


深紅の瞳が、完全に開いた。


身体の奥底から、新たな存在圧が爆発する。


怒りではない。


闘争心でもない。


零への想いを失いたくないという、クオン自身の意志。


薄れかけていた鬼角が再び伸びる。


消されていた紋様が褐色の肌へ刻み直され、透けていた肉体が鮮明な輪郭を取り戻した。


白い虚無に、亀裂が走る。


「なっ……何だ、これは——!」


メツの瞳が大きく見開かれた。


クオンの身体から噴き出したのは、起源回帰とは異なる力。


何者にも定義されず。


何者にも支配されず。


たとえ世界から消されようとも、自らの意志で存在し続ける者だけが持つ気配。


魔界の頂点に立つ者と、同質の力。


魔王の卵。


「この存在圧……魔王、リリス……?」


「言っただろう。違う」


深紅だった瞳が、内側から黄金の光を放つ。


黒い鬼角が純白へ変わり、肌を覆っていた赤黒い紋様も、眩い金色に書き換えられていく。


「私は——クオンだ」


存在圧が、さらに膨れ上がった。


《寂滅天》を満たしていた虚無が、クオンの周囲から押し返されていく。


消えていた色が戻る。


失われていた音が蘇る。


白い虚無に、数え切れない罅が走った。


「馬鹿な……《寂滅天》は、存在するすべてを無へ還す! 何一つ残るはずがない!」


「残る」


クオンは断言した。


「私が、残すと決めた」


失われかけていた記憶が戻っていく。


大戦斧を振るい続けた日々。


皆で囲んだ食卓。


ルシアと交わした、くだらない言い争い。


くすんだ金髪と緑色の瞳。


そして、何度も拳を交えた零の姿。


「消えろ……!」


メツが大鎌を振るう。


《寂滅天》が収縮し、残された虚無がクオン一人へ殺到した。


それでも、クオンは消えない。


黄金の存在圧が、迫り来る虚無を正面から押し返した。


「あり得ない……俺の、俺の《寂滅天》が——!」


領域が内側から砕けていく。


クオンが大戦斧を握り直す。


「手放さない」


一歩。


たった一歩で、メツの眼前へ到達した。


《羅刹》の膂力。


魔王の卵として目覚めた、黄金の存在圧。


二つの力が黒い大戦斧へ集束し、漆黒の刃を黄金に染め上げる。


「お前が私から奪ったもの、返してもらう」


クオンが大戦斧を振り下ろした。


メツが《静寂鎌》で受け止める。


激突。


白銀の刃に、細い罅が走った。


「——ッ!」


罅が刀身全体へ広がる。


存在を消し続けてきた刃が、クオンの存在圧に耐えきれず、砕け散った。


柄が折れる。


白銀の破片が宙を舞う。


第二位階《寂滅天》が、完全に崩壊した。


大戦斧を振り切ったクオンは、さらに一歩踏み込む。


武器を失ったメツの懐へ潜り込み、右拳を握り締めた。


零と何度も打ち合わせた拳。


クオンが最も信頼する、最後の一撃。


「終わりだ」


黄金の存在圧に包まれた拳が、メツの胸部へ叩き込まれた。


轟音。


メツの身体が弾丸のように吹き飛ぶ。


一枚。


二枚。


三枚の石壁を貫通し瓦礫の中へ叩き込まれた。


遅れて発生した衝撃波が、静寂院尖塔の残骸を完全に吹き飛ばす。


やがて、崩落の音が止んだ。


瓦礫に埋もれたメツは、もう動かなかった。


四聖剣第三席《滅諦剣》——メツ・ニローダ。


敗北。


クオンは拳を下ろした。


純白の鬼角が元の黒へ戻る。


黄金の紋様が消え、瞳も本来の色を取り戻していった。


「……勝った」


自分が今も存在していることを、確かめるような声。


クオンは空を見上げる。


リリス。


ルシア。


シエラ。


レイラ。


そして——零。


もう、誰のことも忘れていない。


腹部から、小さな音が鳴った。


数秒の沈黙。


クオンは僅かに笑う。


「……帰ったら、皆で飯にしよう」

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