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第九十九環 「《羅刹》と《寂滅天》」


——人界・南方、静寂院尖塔。


鋼と鋼が噛み合っていた。


クオンの黒い大戦斧が、メツの白銀の大鎌と衝突する。


そのたびに凄まじい衝撃波が発生し、尖塔の残骸を吹き飛ばしていった。


石壁が砕ける。


支柱が折れる。


魔法で強化されていた床が、二人の踏み込みに耐えきれず陥没する。


クオンが大戦斧を横薙ぎに振るう。


メツは《静寂鎌(ニルヴァーナ)》の柄で受け止め、衝撃を流しながら後退した。


クオンは間を与えない。


砕けた床を蹴り、上段から戦斧を振り下ろす。


メツが半身になって回避した。


漆黒の刃が石床へ叩き込まれ、尖塔の内部へ巨大な亀裂を刻む。


その隙に、メツが大鎌を返した。


白銀の刃がクオンの頬を掠め、一筋の赤い線を引く。


だが、浅い。


「軽い」


クオンは一歩も退かなかった。


左手で戦斧の柄を押し込み、鎌ごとメツを弾き飛ばす。


メツは空中で体勢を整え、音もなく床へ着地した。


クオンの頬に刻まれた傷は、既に塞がり始めている。


鬼族が持つ、強靱な生命力と再生能力。


だが、クオンには分かっていた。


あの鎌の本当の恐ろしさは、斬撃の威力ではない。


今の攻撃には、存在を削り取る力が込められていなかった。


「お前、まだ本気ではないな」


メツは白銀の大鎌を構え直した。


数秒の沈黙。


やがて白い唇が動く。


「……お前もだろう」


平坦な声だった。


挑発ではない。


ただ、事実を指摘しているだけ。


クオンはまだ、《起源回帰》(オリジネーション)を使っていない。


鬼族として生まれ持った身体能力と、数え切れない戦闘で磨き上げた勘だけで、四聖剣第三席と互角に渡り合っている。


だが、それはメツも同じだった。


《静寂鎌(ニルヴァーナ)》の固有能力——『寂滅』。


あの夜、レイラの肉体だけでなく、存在や記憶まで削り取った力。


メツはまだ、その本領を発動していない。


「なぜ使わない」


クオンが大戦斧を向ける。


「レイラにやったように、私も消せばいい」


メツの指が、鎌の柄を僅かに握り直した。


「……お前は、あの夜のことを覚えていないはずだ」


「すべては覚えていない」


クオンは否定しなかった。


「レイラの顔も、声も……まだ、はっきりとは思い出せない」


途切れた記憶。


食堂の片隅に座る、くすんだ金髪の女。


誰かを試すような緑色の瞳。


零をからかい、ルシアを怒らせる声。


どれも霧の向こうにあるように曖昧だった。


本来なら、戻るはずのない記憶。


『寂滅』によって消されたものが、なぜ自分の中へ浮かび始めているのか。


クオン自身にも、理由は分からない。


「それでも、知っている」


大戦斧を握る手へ力が籠もる。


「お前がレイラに何をしたのか。リリス様からも、零からも聞いた」


「他人から与えられた記憶は、お前のものではない」


「違う」


クオンの声が低くなる。


「言葉を聞くたびに、胸の奥で何かが動く。失ったものが、自分の場所へ戻ろうとしている」


薄橙色の瞳が、メツを射抜く。


「私は、レイラを覚えている。お前の力でも、消し切れなかった」


闘気が膨れ上がった。


黒い鬼角が脈動し、足元の石床が存在圧だけで沈み込む。


だが、まだ起源回帰ではない。


「レイラは、私の仲間だ」


メツの瞳に、ごく僅かな揺らぎが生まれた。


「……記憶は、苦しみを生む」


《静寂鎌》が持ち上げられる。


「失わなければ、悲しむこともない。覚えていなければ、怒ることもない」


「そんな静寂は、いらない」


クオンは大戦斧を構え直した。


「私が欲しいのは、仲間と生きた記憶だ」


「……そうか」


白銀の大鎌が、音もなく光を帯び始める。


「ならば、もう一度消そう」


鎌の周囲から、音が失われていく。


崩れ落ちる小石の音。


吹き込む風の音。


二人の呼吸音。


あらゆる音が薄れ、世界が死へ近づくような静寂が広がった。


「今度は、何一つ残さない」


クオンとメツが、同時に踏み込む。


黒い大戦斧と白銀の大鎌が、真正面から激突した。


純粋な膂力ではクオンが圧倒していた。


メツの両足が石床へ沈み込み、鎌を握る腕が僅かに震える。


それでも、メツは退かない。


「——『寂滅』」


色のない波動が放たれた。


白銀の刃と接触していた大戦斧の先端が消える。


砕けたのでも、溶けたのでもない。


漆黒の刃を構成していた物質が、最初から存在していなかったかのように欠落していた。


消滅は柄を伝い、クオンの右手へ迫る。


指先の感覚が薄れた。


握っているはずの大戦斧の重みが分からなくなる。


続いて、右腕の輪郭が透け始めた。


クオンの脳裏から、何かが抜け落ちていく。


くすんだ金髪。


挑発的な笑み。


零をからかう声。


戻り始めていた、レイラの記憶。


それが再び、白い霧の向こうへ消えようとしていた。


「レイ……ラ……?」


名前すら、曖昧になっていく。


なぜ自分が怒っていたのか。


なぜ目の前の男を倒そうとしているのか。


戦う理由そのものが、存在の内側から削り取られる。


「これで終わる」


メツが大鎌を押し込んだ。


クオンの右腕が、肘に近い位置まで透けていく。


だが。


「……違う」


クオンの足元から、低い振動が広がった。


消えかけていた右腕から、赤黒い闘気が噴き出す。


鬼族の再生力ではない。


失われようとしている存在を、圧倒的な力で世界へ繋ぎ止めている。


「レイラだ」


クオンの瞳が、メツを射抜く。


「レイラは、私の仲間だ」


存在圧が爆発した。


クオンを中心に石床が陥没し、メツの『寂滅』が押し返される。


透けていた右腕の輪郭が、再び色を取り戻していった。


メツが初めて、明確な驚きを見せる。


「……あり得ない。一度消えた存在は、戻らないはずだ」


「なら、お前の力が足りない」


クオンを覆う存在圧。


『寂滅』へ抵抗し、自らの存在を世界へ刻みつける力。


メツは、それと同質のものを知っていた。


魔王城を襲撃した、あの夜。


ただ一人、消したはずのレイラを覚えていた存在。


「この存在圧……魔王と、同じ……?」


「私は、リリス様ではない」


クオンが大戦斧を握り直す。


「私は、クオンだ」


その名を告げた瞬間。


存在圧が、さらに膨れ上がった。


瞳は揺らがない。


怒りも。


失った記憶を取り戻したいという願いも。


強敵と戦う歓喜も。


そのすべてを否定せず、クオン自身の意志によって一つの力へ束ねている。


黒い大戦斧を石床へ突き立てた。


「獣は死ぬ。血族は死ぬ。この身もまた——いつかは死ぬ」


古くから鬼族へ受け継がれてきた詩。


命あるものは、等しく死ぬ。


それでも——


「されど、死者の遺した戦いの誉れは——決して死なない」


肌に刻まれた赤い紋様が、全身へ広がる。


闘気が血のように濃くなり、黒い鬼角から赤黒い雷が迸った。


「原初真名——《羅刹(ラクシャーサ)》」


クオンが目を開く。


「——《起源回帰(オリジネーション)》」


鼓動が、一度響いた。


次の瞬間。


赤黒い存在圧が、静寂院尖塔を内側から吹き飛ばした。


薄橙色だった瞳は、鮮血を思わせる深紅へ。


黒い鬼角は倍近い長さまで伸び、その肌には赤黒い紋様が這い上がっている。


鬼族の始祖。


破壊と闘争を司る、原初の羅刹。


だが、その瞳には明確な理性が宿っていた。


クオンが大戦斧を引き抜く。


「お前を、ここで終わらせる」


メツは僅かに目を細めた。


通常の『寂滅』では消せない。


ならば——


「……そうか。お前は、消えることを拒むのか」


メツが《静寂鎌(ニルヴァーナ)》を天へ掲げた。


「ならば——俺も、すべてを使おう」


足元から、白い波紋が広がる。


最初に音が消えた。


次に色が消えた。


風も、熱も、光も失われていく。


「神装第二位階——」


《静寂鎌》が、完全な虚無に染まる。


「——《寂滅天(パリニルヴァーナ)》」


世界が——白く塗り潰された。


魔法も。


能力も。


肉体も。


記憶も。


存在を証明するあらゆるものが、等しく削り取られていく。


それでもクオンは、大戦斧を構えた。


「それが、どうした」


深紅の瞳に、恐怖はない。


「消え切る前にお前を叩き潰す」


白い虚無の中心で。


存在を拒絶する鎌と、消えることを拒む戦斧が。


互いのすべてを懸けて、真正面から激突した。


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