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第64話 消去の刻、世界への刻銘

 すべてのスキルを剥がされたオルトスが、技晶石の前に崩れ落ちていた。


 法衣の下で、身体が急速に変化している。肌に深い皺が刻まれ、髪が白く変色し、手の甲に浮かぶ血管が枯れ枝のように浮き上がっていく。三千年分の時間が、借り物のスキルという生命維持装置を失って、一気に身体を蝕んでいた。


 だがオルトスの目からは——怒りが消えていた。


 代わりにあったのは、疲労と、それよりも深い場所にある——悲しみだった。


「馬鹿な——私の計画が——」


 声が枯れている。老人の、本来の声だ。


「管理者が——正しく機能していれば——我々はこんなことをせずに済んだ」


「正しく機能していれば?」


「兄が管理者だった。だが兄は——役割を放棄して死んだ。後継者も育てず、知識も引き継がず。管理者不在のまま、スキルシステムだけが残された。誰かが代わりを務めなければ——人類はスキルの真実を知らないまま、永遠に表層だけをいじって暮らすことになる」


 オルトスの身体が、光の粒子に分解され始めた。三千年分の時間が、巻き戻されている。


「私は——認められたかっただけだ。兄の代わりを務めて——誰かに、よくやったと——」


 声が途切れた。


 光の粒子がゆっくりと舞い上がり、技晶石の中に吸い込まれていく。三千年生きた躰が、元の場所に還っていく。


 最後に残ったのは、白い法衣だけだった。


 俺は法衣の前に膝をついた。


「……よくやった、とは言えない。お前がやったことは許されない。だが——お前の孤独は、わかるかもしれない」


 法衣に触れた。刻紋鑑定が反応する。三千年分の記憶の残滓が、かすかに読み取れた。管理者になれなかった少年が、兄の背中を見つめていた記憶。


 敵だった。だが——刻銘者の遺産の歪みが生んだ、悲劇の存在でもあった。


   ◆


 技晶石の原石に手を当てた。


 ——新しい刻紋を刻む。


 刻むのは、生まれて初めての行為だ。指先から流れる琥珀色の光が、技晶石の内部に新しい紋を描いていく。


 技晶石が共鳴した。原石の内部で光が膨れ上がり、部屋を越え、迷宮を越え、大陸全土に広がっていく。


 世界中のすべてのスキル使いの意識に、一瞬だけ琥珀色の光が灯った。手が光り、胸が温かくなり——声が届いた。


 俺の声ではない。刻紋として刻まれた意味が、直接伝わる。


『スキルは神の恩寵ではない。三千年前の古代文明が、人類の成長を願って遺した贈り物だ。すべてのスキルには表層と深層がある。お前たちの力は、まだ眠っている。——自分の力を信じろ。深層を目覚めさせろ。管理者の名において、すべてのスキルの深層を開放する』


 世界中で、スキル使いたちの身体が光った。自分のスキルの内側に、今まで感じたことのない「奥行き」を見つけている。


 ——新しい時代が始まった。


   ◆


 技晶石から手を離した。膝から力が抜けて、その場に座り込んだ。全身の刻紋がゆっくりと消えていく。普通の人間の身体に戻っていく。


 四人が駆け寄ってきた。リーリアの回復魔法が身体を包む。


「ゼク——」ヴァルが俺の顔を覗き込んだ。瞳に涙が光っている。泣いているのか、笑っているのか。


「終わったのか」


「終わった。——オルトスの三千年も。教会の嘘も。スキルの秘密も」


 ヴァルが自分の手を見下ろした。剣を握る手が、かすかに琥珀色の余韻を帯びている。


「ゼク。さっき——お前の声が聞こえた。いや、声じゃない。頭の中に、直接。『自分の力を信じろ』と」


「聞こえたのか」


「わたしもです」ティアが目を見開いた。


「刻紋として刻まれた意味が、そのまま伝わってきました。世界中のスキル使いに届いたあの言葉——わたしたちにも」


 ニーナが自分の手のひらを見つめた。


「影渡りの奥に、まだ何かある気がする。今まで感じたことのない深さだ」


 リーリアが胸に手を当てた。


「慈愛の泉の、もっと奥。今まで届かなかった場所に、手が届きそうな感覚があります」


 四人が、それぞれの手を見つめている。世界中のスキル使いと同じ光を、この部屋の四人も受け取っていた。


「——最後の選択のことだが」


 ヴァルが俺の正面に立った。瞳が、まっすぐ俺を見ている」


「お前は、管理者権限を手に入れた。世界中のスキルを、思うがままに操れる力だ。オルトスが三千年かけて欲しがった力を——お前は今、完全に握っていた」


「ああ」


「その気になれば、お前が独占することができた。もしくは新しい支配者になることも」


 ヴァルの声が、わずかに震えた。


「だがお前は、解放を——全人類に力を返した。自分は何も手元に残さずに」


「……それが、正しいと思ったからだ」


 ニーナが口を挟んだ。


「あたしは裏社会を五年見てきた。力を手に入れた人間が、それを手放すところなんて、一度も見たことがない。みんな、握った力にしがみつく。——お前は、握った瞬間に手放した」


「オルトスは、認められたかっただけの男でした」


 ティアが静かに言った。


「管理者になれなくて、代わりを務めようとして、道を誤った。——でもゼクさんは、本物の管理者になっても、誰かの上に立とうとしなかった。その違いが——きっと、世界を変えます」


「ゼクくんは」


 リーリアが涙を拭った。


「力で人を従わせるんじゃなくて、一人一人が自分の力で立てるようにした。それって——一番難しくて、一番優しい選択です」


 四人の視線が、俺に注がれている。賞賛でも、崇拝でもない。もっと温かい、信頼の目だ。


「……買いかぶりだ」俺は目を逸らした。


「俺はただ、オルトスみたいにはなりたくなかっただけだ」


ヴァルが言った。


「——誇っていい。お前は、世界を支配できたのに、解放した男だ」


 胸の奥が、じんと熱くなった。世界を救ったと言われるより、この四人にそう言われることの方が、ずっと嬉しかった。


 ヴァルが手を差し伸べた。俺はその手を掴んで立ち上がった。


「帰ろう。——飯を食って、風呂に入って、星を見よう」


「いい案だな」


 四人が笑った。

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