第62話 治す者の手は、握り返されたくて震える
始源の刻印庫、第十層。
最深部への道のりは、あと僅かだった。オルトスの防衛機構を一つずつ解除しながら降りていく作業は、想像以上に時間がかかった。連合軍はここで、安全を確保した小部屋で休息を取ることになった。
俺が壁の刻紋を読み続けて消耗していたので、リーリアが回復をかけてくれた。
「ゼクくん、手を出してください。魔力を回復します」
差し出した手に、リーリアが両手を重ねた。柔らかな光が流れ込んでくる。刻紋の読みすぎで枯れかけていた魔力が、じわりと満ちていく。
「……助かる。第十層の罠は複雑で、思った以上に魔力を食う」
「無理しないでください。ゼクくんが倒れたら、誰も先に進めません」
リーリアの手は温かかった。回復魔法の光だけでなく、手のひらそのものの温もり。
「リーリア。お前こそ無理をするな。深層効果は身体に負担がかかる。ここまでの戦闘で、何度も使っただろう」
「わたしは平気です。——だって」
リーリアが、少し恥ずかしそうに俯いた。
「ゼクくんを回復するのが、わたしの役目ですから。役目があるって、嬉しいんです」
◆
——回復が終わっても、リーリアは俺の手を離さなかった。
両手で俺の手を包んだまま、じっと俯いている。蜂蜜色の髪が、表情を隠していた。
「リーリア?」
「……あの。ゼクくん」
「ん」
「怖く、ないですか。これから、三千年生きた化け物と戦うのに」
「怖い。正直に言えば」
顔を上げたリーリアが、意外そうな目をした。
「ゼクくんでも、怖いんですか」
「当然だ。相手は格上だ。勝てる保証はない。——だが、怖いからこそ、お前たちがいることが心強い」
「わたしたちが……」
「お前の回復がなければ、俺たちは一歩も進めない。お前がいるから、俺は前線で全力を出せる。——お前は、俺たちの命綱だ」
リーリアの瞳が潤んだ。
「わたし、ずっと——自分なんて、いてもいなくても同じだと思ってました。回復術士なんて代わりがいくらでもいるって。でも、ゼクくんは——いつも、わたしがいないとダメだって言ってくれる」
「事実だからな」
「嬉しいです。何度言われても」
リーリアが、俺の手を握る力を強めた。震えている。怖いのか、それとも別の感情なのか。
「ゼクくん。戦いが終わったら——わたしの手を、握り返してくれますか」
「今も握ってるが」
「——そうじゃなくて。戦いが終わって、全部が片付いたら。ゼクくんの方から、わたしの手を握ってほしいんです」
その願いの意味は、さすがにわかった。
リーリアは、いつも与える側だった。回復し、支え、癒し続けてきた。慈愛の泉という名のスキルのように、注ぐばかりで。
彼女は、注がれたかったのだ。一度くらいは。
「わかった」と俺は言った。「全部終わったら、俺から握る。約束する」
リーリアが、ぱっと顔を輝かせた。涙が一粒こぼれたが、それは嬉しさの涙だった。
「はい。——約束、ですよ」
◆
休息が終わり、出発の合図がかかった。
リーリアが立ち上がり、ローブの裾を整えた。さっきまでの不安そうな顔は消え、回復術士の顔に戻っている。
「行きましょう、ゼクくん。——みんなで、勝って帰りましょう」
「ああ」
歩き出そうとした俺の袖を、リーリアがちょんと掴んだ。
「あの、最後に一つだけ」
「何だ」
「ゼクくんの隣を、戦いの間だけ——少し近めにいても、いいですか。回復をすぐ飛ばせるように」
「作戦上、後衛は安全な距離を——」
「だめ、ですか」
潤んだ蜂蜜色の瞳で見上げられると、断りにくい。
「……危険になったら下がれ。それが条件だ」
「はい!」
リーリアが嬉しそうに、いつもより少し近い位置に並んだ。
最終決戦の最深部へ降りていく。
与え続けてきた回復術士が、初めて「握り返してほしい」と願った。
その願いを叶えるためにも——勝たなければならない、と思った。
◆
——第十一層。最深部。
巨大な技晶石の原石の前に、一人の老人が立っていた。
白い法衣。深い皺の刻まれた顔。だが瞳だけが異様に若い。暗く、冷たく、長年の知性を蓄えた目。
枢機卿オルトス・テネブリス。
「ようこそ、ベルンマルクの末裔」
オルトスが両手を広げた。背後の技晶石が脈動し、部屋全体が不安定な光に満たされている。
「三千年待った。管理者が、ようやくここに立った」




