第60話 記憶を取り戻した姫は、新しい記憶を欲しがる
決戦前夜の屋上で、毛布を分け合い、ティアが淹れたお茶を回し飲みした。
やがてヴァルがオーリエルの手入れがあると階下へ降り、ニーナが偵察の最終確認に出て、リーリアが明日の回復薬を仕込みに行った。
屋上からの帰り道。
「ゼクさん」
「ん」
「わたし、記憶が戻ってから——ずっと考えていることがあるんです」
ティアが言った。その横顔には長年の落ち着きと、それでいて少女のような瑞々しさが同居していた。
「封印されていた一年半、わたしには記憶がありませんでした。自分が誰かもわからない。どこから来たかもわからない。——空っぽだったんです」
「つらかっただろうな」
「つらかったです。でも——一番つらかったのは、思い出が一つもないことでした」
ティアがこちらを向いた。
「人は思い出で出来ているんだって、あのとき気づきました。楽しかったこと、悲しかったこと、誰かと過ごした時間。——それが全部なくなると、人は『今』しか生きられない。明日への希望も、昨日への愛おしさも、何もない。ただ、空っぽの今だけ」
「……」
「だから、わたしは決めたんです。記憶を取り戻したら——新しい思い出を、たくさん作るって。二度と空っぽにならないように」
◆
「ゼクさん。あなたと出会ってからの記憶は、全部、宝物です」
「全部?」
「全部です。図書館で初めて会った日。封印の紋を読んでもらった日。一緒に迷宮に潜った日。お姉さまと再会させてもらった日。——その一つ一つが、かけがえのないものなんです」
ティアが懐から、小さな石を取り出した。エルデの夜市で買った記憶石だ。中に、あの夜の景色が封じられている。
「この石、まだ大事に持ってるんです。あの夜の思い出を封じた石。——でも本当は、石なんてなくても、わたしはもう忘れません。ゼクさんとの時間は、全部この胸に刻まれているから」
ティアが胸に手を当てた。
「ゼクさん」
「何だ」
「明日、戦いが終わったら——また、新しい思い出を作ってくれますか」
「ああ。作る」
「約束ですよ。指切りしましょう」
ティアが小指を差し出した。子供のような仕草だが、目は真剣だった。俺は自分の小指を絡めた。
「指切りげんまん。——破ったら、星詠の書架で世界中にゼクさんの恥ずかしい記憶を投影します」
「物騒な指切りだな」
「冗談です。半分は」
「半分は本気か」
「ふふ」
ティアが笑った。封印が解けてから、彼女はよく笑うようになった。記憶を取り戻した安心が、表情を柔らかくしている。
◆
指を絡めたまま、ティアが歩きながら少しだけ俺に身を寄せた。翡翠色の髪が肩に触れる。
「ゼクさん。一つだけ、ずるいお願いをしてもいいですか」
「内容による」
「明日の戦い、わたしの傍を離れないでください」
「作戦上、俺は前線で刻紋を読む。お前は後方で書架を——」
「わかってます。物理的な距離の話じゃないんです」
ティアが俺の小指を、ぎゅっと握った。
「お姉さまが言っていた条件、覚えてますか。わたしの魔力署名を、ゼクさんの刻紋で覆って隠すって。——あれ、戦いの間も続けてほしいんです」
「ああ、それは続ける。お前の魔力が教会の探知に引っかからないように——」
「つまり、戦いの間ずっと、ゼクさんの琥珀色の光がわたしを包んでいるということですよね」
ティアの頬が、ほのかに赤くなった。
「ゼクさんの光に包まれていると——安心するんです。封印を解いてもらったときも、あの光が温かくて。世界で一番、安全な場所みたいで」
「……それは、ただのスキルの効果だ」
「スキルの効果でも、いいんです。明日、怖くなったら、ゼクさんの光を感じます。そうすれば、きっと戦える」
ティアが立ち止まり、俺の肩に、こてんと頭を預けた。髪から、優しい香りがする。
記憶を失い、空っぽだった少女が、新しい記憶を一つずつ抱きしめている。
その記憶の中に、俺がいる。それは——悪い気分ではなかった。
「ゼクさん」
「ん」
「明日が終わったら、新しいお茶の淹れ方を覚えたいです。それと、料理も。ヴァルさんの分まで、わたしが作れるように」
「ヴァルの料理は壊滅的だからな」
「ふふ。だから、わたしが頑張ります。——五人分の、美味しいご飯を」
明日への希望を語るティアの横顔は、星よりも明るかった。
空っぽだった少女は、もう空っぽではない。
未来を語る言葉で、いっぱいに満ちていた。




