第56話 帳簿が止めを刺す
クラウスの反乱が鎮圧されてから二日後、聖典教会の内部で革命が起きた。
大司教ローレン・ヘルムートが全聖職者に緊急招集をかけたのだ。大聖堂の広間に数百名の聖職者が集まった。白い法衣の群れが、石造りの広間を埋め尽くしている。
ローレンが壇上に立った。白髪の老聖職者。穏やかな顔だが、今日は目が違った。覚悟を決めた人間の目をしている。
「聖典教会は、道を誤りました」
広間にざわめきが走った。大司教が公の場で教会の過ちを認める——前例がない。
「枢機卿オルトス・テネブリスの指揮のもと、教会は獣人の奴隷実験を行い、記憶迷宮の遺物を不正に流通させ、無実の騎士を陥れ、異国の王女を追い回しました。これらはすべて、スキルを通じた人類の導きという教会本来の使命とは相容れない行為です。——もはや、知らなかったでは済まされません」
オルトス派の幹部の一人が立ち上がった。五十代の恰幅のいい男で、顔が赤い。
「大司教、それは越権行為だ。枢機卿の破門には教会会議の三分の二の賛成票が——」
「昨夜のうちに投票を完了しました」
ローレンの声は淡々としていた。だがその淡々さの裏に、根回しの疲労が透けている。
「賛成七十八、反対三十一。三分の二を超えて最低投票数を満たして議会の承認を得ています。——採決結果は書記局に記録済みです」
幹部の顔から表情が消えた。計算が追いつかないのだろう。昨夜のうちに——つまり自分たちが知らない間に、票が集められていて議会承認済。
ニーナの情報網が教会内部の良心派に帳簿のコピーを流し、一人ずつ説得していった成果だ。
「本日をもって、枢機卿オルトス・テネブリスを聖典教会から破門とします。オルトスに従った特別研究部門の聖職者は即時停職とし、独立調査委員会の調査対象とします」
広間が揺れた。数百人の聖職者がざわめき、怒声を上げる者、拍手する者、黙って頭を垂れる者——教会が真っ二つに割れる瞬間だった。
◆
ローレンはさらに畳みかけた。
「教会の透明性を確保するため——全聖職者の資産報告書を本日付で公開します」
広間の空気が凍りついた。
オルトス派だけではない。中立派の聖職者たちの顔にも動揺が走っている。清貧を誓ったはずの聖職者の私的な資産が、白日の下に晒される。
資産報告書が配布された。書記官が一枚ずつ、聖職者の名前と保有資産を読み上げていく。
「ヘルマン司教。個人保有不動産——豪邸三軒、別荘二軒。個人貯蓄——金貨八千枚」
ヘルマンと呼ばれた中年の司教が、椅子から立ち上がりかけて座り直した。
「ヴェルナー助祭長。個人コレクション——希少ワイン千二百本。年間維持費は一般市民の生涯収入に匹敵」
助祭長の顔が紫色に変わった。
「ケルン枢機卿代理。闇市場での遺物売買による利益——推定金貨三万枚」
代理が立ち上がって抗議しようとしたが、周囲の聖職者の視線に射抜かれて座り直した。数字は嘘をつかない。帳簿に残った記録は、弁明では消せない。
傍聴していた一般信徒から怒号が飛んだ。
「清貧の誓いはどこに行った!」
「十分の一税で納めた金が、あんたらのワインになってたのか!」
オルトス派の聖職者たちは弁明を試みたが、金額の前では無力だった。「信仰に金銭は関係ない」という主張は、金貨三万枚の帳簿を前にしては冗談にしか聞こえなかった。
俺は広間の端でニーナと並んで立っていた。
「……戦闘より効いたんじゃないか、これ」
「金の流れを暴くのが一番いい。情報屋の鉄則だ。——剣で斬っても人は黙らないが、帳簿を開くと全員黙る」
ローレンが壇上で静かに締めくくった。
「神に仕える者は清貧であるべきです。——ワイン千二百本は、清貧とは申せません」
教会のオルトス派は、この日をもって事実上崩壊した。剣ではなく、帳簿が止めを刺したのだった。
◆
——だが、オルトス本人は教会の中にいなかった。
ニーナの情報網によれば、オルトスは数日前から始源の刻印庫に立て籠もっている。教会の精鋭戦力——特別研究部門の強化聖職者十数名と、オルトスに個人的な忠誠を誓った狂信者たち——を引き連れて。
北の山脈に立つ琥珀色の光柱は、日を追うごとに強くなっていた。夜になると、エルデの町からでも薄く確認できるほどだ。
「始源の刻印庫の防衛機構を利用して、要塞化しています」
ティアが書架で分析した結果を報告した。光の書架を小さく展開し、迷宮の構造図を空中に投影する。
「迷宮の罠が攻撃的に切り替わっていて、刻紋を読めない者は入口の時点で排除されます。通常の軍隊での突入は不可能です」
「つまり、俺がいないと入れない」
「管理者権限で防衛機構を一つずつ無力化しなければ、最深部には到達できません。——オルトスはそれを承知の上で立て籠もっています。私たちが来ることを、待っているんです」
ヴァルが窓の外——北の空に伸びる琥珀色の光柱——を見つめた。
「罠だとわかっていても、行かなければならない」
「ああ。始源の刻印庫にはスキルシステムの全真実がある。オルトスを止めるにも、世界にスキルの真実を伝えるためにも——あの場所が最後の舞台だ」
俺は全員を見渡した。ヴァル、ティア、ニーナ、リーリア。
「三日後、始源の刻印庫に向かう。——最後の決着をつけに」
四人の頷きが返ってきた。




