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第57話 黒豹は、信じた者の前でだけ牙をしまう

 円塔の屋根の上で、俺はニーナと二人になっていた。エルデの夜空は王都より星が多い。決戦が近いというのに、ニーナは妙に落ち着いていた。


「眠れないのか」


「そんなことはない。あたしは戦いの前は逆に冷静になる——昔からだ」


 ニーナが屋根の傾斜に背を預け、夜空を見上げた。黒い耳がぴんと立ち、尻尾が屋根の上でゆらゆらと揺れていた。


「奴隷だった頃、売られる前夜はいつも眠れなかった。次にどこへ連れていかれるか、何をされるか、わからなくて。——でも、逃げると決めた夜だけは、不思議と冷静だった」


「逃げる夜と、同じか」


「違う。逃げる夜は一人だった。今夜は——五人だ」


 ニーナがこちらを見た。金色の瞳が、星明かりを映している。


「あんたらと一緒なら、どうなっても後悔はない。——そう思えるようになったのが、自分でも意外だ」


   ◆


 夜風が吹いた。少し冷える。ニーナが小さく身震いした。


 俺は上着を脱いで、ニーナの肩にかけた。


「いらない。獣人は寒さに強い」


「震えてたぞ」


「……これは武者震いだ」


 ニーナは文句を言いつつ、上着を受け止め、襟元を引き寄せて鼻先を埋めた。


「……あんたの匂いがする」


「着てたからな」


「嫌いじゃない。——獣人にとって、匂いは信頼の証だ。嫌いな奴の匂いは耐えられない。お前の匂いは——落ち着く」


 さらりと、とんでもないことを言われた気がする。ニーナは無自覚なのか、自覚した上で言っているのか、表情からは読めない。


「ニーナ。決戦のことだが——、お前、無理をするなよ。深層効果の連続使用は身体に負担がかかる。倒れそうになったら、すぐ言え」


 ニーナが、ふっと笑った。牙が星明かりに光る。


「あんたは、そういうところだよな」


「どういうところだ」


「戦いの前夜に、作戦の確認より先に、あたしの身体の心配をする。——情報屋を五年やってきたが、あたしを心配する奴なんて、一人もいなかった」


 ニーナが身を起こし、俺の隣に座り直した。肩が触れる距離。黒い尻尾が、俺の腰に巻きついた。無意識の動作だ。温かい。


「ゼク。一つ、聞いていいか」


「ああ」


「あんた、ヴァルにも、ティアにも、リーリアにも——同じように優しいよな」


「同じかどうかはわからないが」


「同じだよ。全員に等しく優しい。誰のことも見捨てない。——それが、あんたのいいところで、たまに、ずるいところだ」


「ずるい?」


「全員に優しくされると、勘違いするだろ。自分だけ特別なんじゃないかって。——あたしですら、たまにそう思う」


 ニーナの耳が、ぺたんと伏せた。獣人の照れの仕草だ。


「……まあ、いい。終わったら、ちゃんと聞く。あんたが誰を一番に思ってるか。——逃げるなよ」


「逃げるわけないだろう」


「逃げたら、影の中に閉じ込める」


「物騒だな」


「黒豹だからな」


 ニーナが俺の肩に頭を預けた。黒い耳が頬をくすぐり、柔らかい。尻尾が腰に巻きついたままだ。


 世界の命運がかかった戦いが待っている。


 だが今は——この静かな夜の温もりだけで、充分だった。


   ◆


 しばらくして、屋根の下から声がした。


「ニーナさーん、ゼクさーん。荷物の確認を——あっ」


 ティアが屋根に登ってきて、固まった。俺の肩にもたれるニーナと、腰に巻きついた尻尾を見て、琥珀色の瞳がじとっと細まる。


「……また、です」


「また、とは」


「ヴァルさんのときも、リーリアさんのときも、こうでした。——ゼクさん、無自覚に女性を侍らせる才能がありますね」


「侍らせてない。ニーナが勝手に——」


「その言い訳、何回目ですか」


 ニーナが面倒くさそうに、しかし尻尾は離さずに言った。


「ティア。お前も座れよ。星がきれいだぞ」


「……いいんですか」


「もうすぐ死ぬかもしれないんだ。今夜くらい、全員で星を見たっていいだろ」


 ティアが嬉しそうに、俺の反対側に座った。


 黒豹の情報屋が、自分から仲間を誘った。五年間、誰も信じなかった少女が。


 それだけで、戦う理由になる気がした。

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