第45話 情報屋との夜の約束
作戦決行の前夜だった。
王宮の屋上——古代樹の最も高い枝の上に作られた展望台で、ニーナと二人になった。エルフの都市の灯りが眼下に広がり、遠くの森は月明かりに青く染まっている。星が異常に近い。手を伸ばせば掴めそうだった。
「ゼク」
「何だ」
「あたしがなんで情報屋をやってるか、ちゃんと話したことあったか」
「大まかには聞いた。奴隷から逃げて、情報を売って生きてきたと」
「大まかじゃなくて——全部話す」
ニーナが膝を抱えた。古代樹の枝の上に座る黒豹族の少女。小柄な身体が、月明かりの中でさらに小さく見えた。
「奴隷から逃げたのは、十三のときだった。夜中に檻の錠前を壊して——スキルが発現したのがちょうどその日だったんだ。影渡り。檻の影に入って、壁の外の影から出た。生まれて初めてスキルを使った夜に、あたしは自由になった」
「十三で——」
「走った。三日三晩走った。追手が来ないところまで。——だけど、逃げた先にも居場所はなかった。獣人の街に帰れればよかったが、焼印を持ってる獣人は元奴隷だとわかる。獣人同士でも差別されるんだ。『あいつは商品だった奴だ』って」
ニーナの声に感情がなかった。事実を報告するときの、情報屋の声だ。感情を挟まないのは、挟んだら壊れるからかもしれない。
「一人で生きるしかなかった。情報を売って金にする。裏社会に潜り込んで、人の秘密を握って身を守る。信じられるのは自分だけ。頼れるのは自分の耳と鼻と牙だけ。——そうやって生き延びてきた」
「その間、誰にも触れさせなかった。触られるのは——奴隷のときの記憶と繋がるから」
俺は黙って聞いていた。何か言おうとして、やめた。ここで同情の言葉を挟んだら、ニーナは二度と話さないだろう。
「あんたと会って——変わった」
「俺?」
「あたしの傷跡を読んだとき。お前は泣かなかった。同情もしなかった。ただ事実を読んで、やるべきことを決めた。『教会の奴隷施設を潰す。条件はいらない』って。——あれが、五年ぶりに人を信じた瞬間だった」
ニーナの声が変わった。情報屋の声から、二十歳の女の子の声に。
「同情されるのは嫌いだ。かわいそうだと思われるのも。——でもあんたは、かわいそうだと思わなかっただろう」
「ああ」
「何を思った」
「強い奴だと思った。全部越えて、今ここにいる。それは——すごいことだ」
ニーナが鼻を鳴らした。笑ったのか、泣きそうなのを堪えたのか、判別がつかない音だった。
「……あんたさ。女の扱いが下手なくせに、たまに上手いよな」
「下手なのか上手いのかどっちだ」
「——ずるいんだよ、あんたは」
ニーナが俺の手に、自分の手を重ねた。小さくて、硬くて、温かい手。
「明日が終わったら——あたしの傷跡、全部読んでくれ。背中だけじゃなくて。腕も、脚も、腹も。あたしの過去を、全部お前に読ませる」
「……全部?」
「全部だ。あたしの過去を知ってるのが世界でお前だけになったら——あたしは、お前をちゃんと信じきれると思うから」
手が握り返された。ニーナの手は震えていなかった。
「いいのか」
「いい。——あんたになら」
「わかった。全部読むよ。約束だ」
ニーナが牙を見せて笑った。月明かりの下で、金色の瞳が濡れて光っていた。
「……あんたさ、女の身体を見る理由がいつも『鑑定のため』なの、ずるいと思わないか」
「ずるいってどういうことだ」
ニーナが俺の肩にもたれた。黒い耳が俺の頬に触れた。柔らかい毛だ。尻尾が俺の腕に巻きつく。温かい。
星空の下で、二人分の呼吸が白く昇っていく。
明日は戦いだ。檻を壊しに行く。鎖を断ちに行く。
ニーナの手を握ったまま、俺は星を数えていた。
◆
翌朝。
カレンデュラの正門前に、五人のパーティーとエルフ特殊部隊二十名が集結した。
空間収納鞄には突入に必要な装備がすべて詰め込まれている。予備の武器、回復薬、拘束具、そして救出した子供たちのための毛布と食料。
ニーナが先頭に立った。小柄な身体に黒い短髪、金色の瞳。背中の傷跡は服の下に隠れている。だがその傷に刻まれた痛みが——今日、力に変わる。
「行くぞ」
ニーナが牙を見せた。獣人の笑みだ。獲物を前にした、黒豹の笑み。
「鎖を——断ちに」




