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第43話 鎖を断つ牙

 入浴後、着替えて書庫に戻ると、ニーナが深刻な顔で待っていた。走ってきたらしく、黒い髪がまだ湯気で湿っている。


「急報だ。あたしの情報網から連絡が入った」


「何があった?」


「教会の奴隷実験施設——王都旧城区の地下——で大規模な被験者移送が始まった。帳簿も実験記録も処分しようとしている。証拠隠滅だ」


 全員の空気が変わった。温泉の弛緩が一瞬で消え、戦闘態勢の緊張に切り替わる。


「子供たちは——」


「まだ施設にいる。だが移送先で何をされるかわからない。急がないと」


 ニーナの金色の瞳に、情報屋の冷静さと、元奴隷の怒りが同居していた。


「カレンデュラの同盟は固まった。ティアの力も戻った。——次はあたしの番だ」


 俺は頷いた。


「ニーナ。お前のスキルの深層を読む。作戦の前に、お前の【影渡り】の本当の力を引き出す。——三つ目の深層だ」


 ニーナの黒い耳がぴんと立った。


「頼む、やってくれ」


   ◆


 ニーナのスキル【影渡り】の深層を読む作業は、王宮の訓練場で行った。


 古代樹の枝の上に作られた広場だ。床は磨き上げた木材で、周囲に翡翠色の灯りが並んでいる。エルフの兵士たちが使う訓練場だが、今日は俺たちに貸し切りにしてもらっていた。


「触れるぞ」


「ああ」


 ニーナの右手を握った。最初に傷跡を読んだときは「じろじろ見るな」と牙を剥いていたニーナが、今は黙って手を差し出している。小さくて硬い手だ。指先にナイフを使い続けたせいで出来たたこがある。


 刻紋鑑定を発動した。琥珀色の光がニーナの体内に流れ、スキルの構造を照らし出していく。


 表層はすでに把握している。【影渡り(シャドウ・ストライド)】——自分の影と接続した別の影へ、瞬時に移動する。Bランクの移動系スキル。ニーナはこれを十年以上使い込んでおり、表層効果の精度は極限まで高まっていた。


 問題は、その奥だ。


 琥珀色の光が表層の紋を透過し、深層に触れた。


 それは別物だった。


 表層の「影移動」が点と点を結ぶ線だとすれば、深層は——空間そのものを操作する力だった。


「ニーナ。お前のスキルの深層は、影の中に独立した空間を作る力だ」


「え、空間?」


「影を入口にして、内部に格納空間を展開できる。俺たちの空間収納鞄と似た原理だが、規模が桁違いだ。人間を丸ごと格納できる。しかも、格納した状態で別の影から取り出せる——つまり」


「人間ごと、長距離転送ができるってことか」


「そういうことだ。子供を三十人格納して、施設から安全圏まで一気に搬送できる」


 ニーナの金色の瞳が見開かれた。虹彩の奥で、何かが灯った。怒りではない。希望に近いものだった。


「やり方を、教えろ」


   ◆


 深層効果の訓練は、想像以上に難しかった。


 表層の影渡りは「影に入って、影から出る」というシンプルな動作だ。身体が影に溶け、別の影に再構成される。ニーナの身体感覚に完全に馴染んでいる。


 だが深層は違う。影の「中」に留まり、その空間を自分の意志で「広げる」必要がある。通り抜けるのではなく、中に部屋を作るイメージだ。


「力を抜け。影に溶けるところまでは今まで通りだ。そこから先——中に留まって、空間を広げろ」


「広げる、って言われても——」


 ニーナの身体が影に沈み、一秒後に弾き出された。訓練場の木の床に転がる。


「くそっ。入った瞬間に押し出される。影の中に留まれない」


「焦るな。十年間『通り抜ける』ことに特化してきた身体が、『留まる』ことに抵抗してるんだ。コツは——影を自分の身体の延長だと思うことだ」


「延長?」


「お前の尻尾みたいなもんだ。尻尾は考えなくても動くだろう。影も同じように、自分の一部として感じてみろ」


 ニーナの黒い尻尾がぴくりと動いた。無意識に。


「……尻尾か」


 ニーナが目を閉じた。深呼吸を三回。影に溶け込んでいく——今度は弾き出されなかった。


 影の中で、ニーナの姿が揺れている。黒い影の表面がゆらゆらと脈動し、少しずつ面積を広げていく。拳大、頭大、人ひとり分——。


 ニーナが影から飛び出した。息が荒い。


「五秒だけ、中に留まれた。——広さは人ひとりがしゃがめる程度だ」


「充分だ。その感覚を覚えろ。繰り返せば精度は上がる」


 三時間の訓練で、ニーナは拳大の物体を影の中に格納し、五十メートル離れた影から取り出すことに成功した。まだ人間一人を転送するには足りない。だが感覚は掴めた。


「明日の作戦までに、子供一人分の容量に広げる。——できるか?」


「やるしかない」


 ニーナの耳がぴんと立っていた。獣人の本能が目覚めている。獲物を追う目だ。獲物は、奴隷商人のアジトだ。

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