第42話 幻想の露天風呂はパーティ全員で入るべし
封印解除から二日目。
アルセリアが「歓迎を兼ねて」と、王宮の大浴場に全員を招待した。
カレンデュラの大浴場は、古代樹の根が温泉を取り囲む天然の露天風呂だ。根の表面に翡翠色の刻紋が光り、湯気が紋の光を含んでぼんやりと輝いている。幻想的な場所だった。
問題は——エルフの入浴文化だった。
「カレンデュラでは、入浴は性別を分けません」
ティアがにこにこしながら説明した。記憶が完全に戻った今、カレンデュラの文化を正確に——説明している。
「自然の中で身体を清めるのがエルフの伝統で、男女の区別をつけるのは不自然であると——」
「俺は人間なので人間の習慣に従って別々に——」
「ゼク殿」
アルセリアが背後に立っていた。いつの間にいたのか。
「我がカレンデュラの賓客として、当国の文化を拒否するのか」
「拒否というわけでは——」
「お姉さま、賓客の文化も踏まえた上でおもてなしを——」
「エルフの外交儀礼として、賓客が入浴を拒否するのは宣戦布告に——」
「お姉さま、そこまでは言ってません! 私はただ一緒に入りたいだけで——あっ」
ティアが自爆した。全員が聞いた。顔が耳の先まで赤くなった。
「……い、一緒にというのは、パーティー全員で、という意味で——」
「そうだな。パーティー全員で入ればいい」とアルセリアがにこりともせずに言った。「姉として妹の恋路は応援する主義だ」
「恋路って言いましたね今!?」
結局、湯気が濃いから大丈夫ということで全員で入ることになった。湯気は確かに濃い。視界は三メートル程度しかない。だが音は湯気で遮られない。
「ヴァルさん、背中流しましょうか」
「頼む。——ああ、そこが凝っている。鎧の跡が……」
「やっぱり大きいですね……。わたしも母方の血が強いとはいえ、ヴァルさんには——、あ、サイズ上がってませんか?」
「比べるな。サイズの話をするな。特にゼクに聞こえる距離で」
聞こえている。完全に聞こえている。俺は目を閉じたまま壁の刻紋を読むふりをしていた。何も刻まれていない壁を。
ニーナが横で湯に浸かりながら、話しかけてきた。
「あんた、聞こえてるだろ?」
「——ああ。勝手に聞こえてきた」
「そうだな——あたしも聞こえてる。獣人の耳は伊達じゃない。ヴァルのサイズの話、全部把握した。——あたしが一番小さいことも改めて確認した」
「わざわざ共有しなくていい」
ニーナの声には自嘲と諦めが混じっていたが、尻尾だけは湯の中でゆらゆら揺れていた。温泉が気持ちいいのだろう。獣人は正直な生き物だ。
ゆっくり湯に浸かっていると、ヴァルの手が、湯の中で俺の手に触れた。
「目は閉じておけ」
「閉じてる」
湯の温もりとは別の温かさが、手のひらから伝わってきた。
湯気が二人の間を漂い、翡翠色の刻紋が湯面にぼんやりと光を落としている。
不意に、反対側から水音がした。
「ゼクさん」
ティアの声だ。近い。さっきまで湯船の向こう側にいたはずなのに——。
湯気の中から翡翠色の髪が現れた。ティアがこちらを見つめている。
肩から上が湯面に出ていた。白い肌が湯気で上気し、鎖骨のラインが薄紅色に染まっている。封印が解けたティアの肌には、もう蒼白い紋は一本もない。
「ティア。近いぞ」
「お礼が言いたくて」
「礼なら離れた場所からでも——」
「離れた場所では伝わらないお礼です」
ティアが俺の左手を取った。ヴァルが右手を握ったままティアが左手を握ったことで、両手が塞がった。
「封印を解いてくれたこと。記憶を戻してくれたこと。ここまで連れてきてくれたこと。——ゼクさんの手がなければ、わたしは今も名前だけの人間でした」
「俺の手じゃなくても——」
「ゼクさんの手でなければ無理でした。琥珀色の光がわたしの封印に触れたとき——温かかったんです。ずっと冷たかった身体が、初めて温まった。あの感覚は——ゼクさんだけのものです」
ティアが俺の左手を持ち上げた。湯から出した手に、唇を当てた。手の甲に、柔らかい唇の感触。
「エルフの感謝の作法です。命を救ってくれた相手に、こうして——」
「本当にエルフの作法か?」
「……はい。今そう定めました」
ティアが顔を上げた。至近距離で微笑んでいる。湯気の中で、頬が赤いのは湯の熱だけではないだろう。
その瞬間、ティアの身体が少し浮き上がった。湯船の底が傾斜しているのだ。足を滑らせかけたティアが俺の腕にしがみつき——湯の中で、ティアの胸が俺の腕に押し当てられた。
——柔らかかった。湯の中で浮力を受けたティアの胸は、普段ローブの下に隠れている以上の豊かさで俺の腕を包んでいた。ぬるりとした湯と、肌の柔らかさが、腕の内側に直接伝わる。
「きゃっ——すみません、足が——」
「いい、動くな。更に滑る」
ティアが俺の腕にしがみついたまま、体勢を立て直そうとしている。だが動くたびに胸が腕に押し付けられ、離れ、また押し付けられる。湯の中での動きは遅く、ティアの身体が俺の腕に密着する時間が長い。
右手にヴァル。左腕にティア。両方向から柔らかさに挟まれている。
ヴァルが俺の右手を握る力が強くなった。
「……ティア。そろそろ離れろ」
「離れたいんですが、足が——」
「足の問題ではないだろう」
「足の問題です。本当に。——あっ」
ティアがまた滑った。今度は俺の胸に顔を押し当てる形になった。ティアの髪が俺の首筋にかかり、吐息が鎖骨を撫でる。
「……ゼクさんの心臓、すごく速いです」
「湯の温度のせいだ」
ティアがゆっくりと身体を起こした。腕にしがみついたまま。離れない。後ろからニーナの声がした。
「おい。さっきからずっと何やってんだ」
「何もしていない。ティアが滑っただけだ」
「滑って密着するのは物理法則に反してるだろ」
「湯の中では浮力があるから——」
リーリアが湯船の端から覗いていた。
「あの……わたしも足が滑りそうなんですが……」
「「滑るな」」とヴァルとニーナが同時に言った。
カレンデュラの大浴場は、こうして外交事件の一歩手前で幕を閉じた。




