第39話 女王の涙、姉妹の再会
カレンデュラ王国の規模は、想像を超えていた。
巨大な古代樹——幹の直径だけで三十メートルはある——の内部をくり抜いて作られた都市。螺旋状の通路が樹の中を巡り、枝の上に宮殿や住居が築かれている。樹の内壁には刻紋が途切れなく刻まれ、琥珀色と翡翠色の光がゆるやかに通路を照らしていた。
刻銘者の時代の建築が、三千年を経てなお呼吸している。
俺の指先が止まらなかった。壁に触れるたびに膨大な刻紋情報が流れ込んでくる。この都市全体が、一つの巨大な刻紋体系で成り立っているのだ。
「ゼクさん、壁を撫でながら歩くのはやめてください。エルフの方に見られています」
「すまん。職業病だ」
「壁を撫でる職業病って何だよ」とニーナが呆れた。
◆
王宮は古代樹の最上部にあった。
枝の上に築かれた白い石造りの宮殿。壁のいたるところに刻紋が光り、外の風景が紋様を通じて投影されている。窓がなくても景色が見える——三千年前のプロジェクション技術だ。
謁見の間に通された。高い天井で、翡翠色の光柱が左右に並ぶ。奥に、翡翠と銀で飾られた玉座——。
玉座の上の女性が立ち上がった。
翡翠色の短い髪。切り揃えた前髪の下の鋭い琥珀色の瞳は、ティアと同じ色をしていたが、宿る光がまるで違う。百年以上の治世を経た支配者の眼だった。
カレンデュラ王国女王、アルセリア・シルフィード。
——ティアの姉。
アルセリアが玉座を降りた。一歩、二歩と前に出る。女王の威厳が、歩くたびに薄れていく。五歩目で、それは完全に剥がれ落ちた。
残ったのは、妹の無事を一年半祈り続けた女の顔だった。
「ティアラ」
声が掠れていた。
ティアも歩み寄った。五歩の距離が三歩になり、二歩になり——。
アルセリアがティアを抱きしめた。力強く。
「来られなかったんです。記憶がなくて、道もわからなくて——でも、この人たちが連れてきてくれました」
「分かってる——、私が悪かった」
アルセリアの肩が震えていた。エルフの涙は光を含んで銀色に輝くのだと、俺はこのとき初めて知った。
ヴァルが目を伏せていた。ニーナが天井を見ていた。リーリアは堂々と泣いていた。
◆
姉妹の再会が落ち着いた後、アルセリアは切り替えるように背筋を正した。
「まず——礼を言わせてくれ」
エルフの女王が、頭を下げた。深い一礼だった。
「ティアラを守り、ここまで連れてきてくれた。——言葉では足りないが、カレンデュラの女王として、そして姉として、心から感謝する」
予想していなかった。女王が、人間に頭を下げるとは。
ヴァルが小さく目を見開いている。ニーナの黒い耳がぴくりと動いた。リーリアが泣きそうな顔になっている。ティアだけが微笑んでいた。姉の本質を知っている顔だった。
「ゼク・ベルンマルク。管理者の血統を持つ刻紋鑑定士。——お前がリーダーか」
「はい」
国境警備隊に合流してからティアが概要を伝えていたのだろう。
「そして——ヴァレリア・ヴァルハイトか。刻銘者の騎士の末裔にして、冤罪の女騎士。——お前の剣の話はティアラから聞いている」
「恐れ入ります、女王陛下」
「ニーナ・ノワール。元奴隷の情報屋。——獣人がエルフの王宮に入るのは、百年ぶりだな」
「光栄ですね。あたしみたいなのが歓迎されるとは思いませんでしたが」
「ティアラを守った者としてもちろん歓迎している」
「リーリア・グラーティア、回復術士」
「はい」
アルセリアの視線が俺に戻った。
「改めて感謝する。では、ティアラについて話そうか」
◆
私室に場所を移し、本題に入った。
アルセリアが語ったのは、ティアの封印の全容と、教会の動き——そして、ゼクの両親のことだった。
「ティアラの封印は三層構造だ。第一層が記憶の遮断。第二層がスキルの封印。第三層が位置隠蔽。すべて私の手で施した」
「それほど複雑な封印を——なぜ」
「教会がティアラのスキルの正体に気づいたからだ」
アルセリアの声が低くなった。
「【星詠の書架】——刻銘者の知識データベースへの直接接続。三千年分の技術と歴史が詰まった書庫への鍵だ。教会がこれを手に入れれば、スキルシステム全体を掌握できる。ティアラを捕らえて力を搾り取るか、封じ込めるか——どちらにしても、妹の人生は終わっていた」
「だから記憶を封じて逃がした」
「死んだことにして逃がした。王宮の記録上、ティアラ・シルフィードは一年半前に病死している」
アルセリアの手が、膝の上で握りしめられていた。
「——封印の術式は、二日かけて組み上げた。ティアラが眠っている間に。目が覚めたとき、妹は私のことを覚えていなかった。名前も、顔も。私を見て『どなたですか』と言った」
謁見の間のような公の場では流さなかった涙が、私室の静けさの中でこぼれた。銀色の一筋が、女王の頬を伝っている。
「王として正しい判断だったと、今でも思っている。だが姉としては——一生許されない選択だった」
ティアがアルセリアの手を握った。
「許すも何もありません。お姉さまがそうしてくれなければ、わたしは教会に捕まっていた。感謝しかないです」
アルセリアが妹の手を握り返した。その力の入り方が、言葉より雄弁だった。
◆
「そして——ベルンマルクの名について」
アルセリアが俺を見た。涙の痕はすでに拭われ、女王の顔に戻っている。
「二十年前、ベルンマルクの姓を持つ人間の夫婦がカレンデュラに逃れてきた。教会に追われていた。二人とも琥珀色の魔力痕を持つ管理者の血統で——お前と同じ色の瞳をしていた」
両手を膝の上に置いた。握りしめないように、意識して。
「二人は、幼い息子を人間の社会に残してきたと言っていた。教会の追手が子供に及ばないよう、なるべく離れた場所に預けたと」
「孤児院に——」
「そうだ。カレンデュラで数年間保護した。だが教会の圧力が年を追うごとに強まり、二人は我が国を巻き込むまいと、自ら去った。その後の消息は——掴めていない」
「生きていますか」
「死んだという報告は入っていない。だが、生きているという確証もない。——ただ、一つだけ言える。あの二人は諦めていなかった。息子のもとに帰ると、最後まで言っていた」
アルセリアが壁際の書棚から小さな手帳を取り出した。
「二人がカレンデュラを発つとき、これを残していった。息子に渡してほしいと」
革装丁の手帳を受け取った。表紙に琥珀色の刻紋が刻まれている。触れた瞬間、刻紋鑑定が反応した。
映像は見えなかった。だが、感情が伝わってきた。温かさ。悲しみ。そして——「いつか必ず会える」という、祈りに近い確信。
最後のページに、古代語ではなく普通の人間の言葉で一行だけ書かれていた。
『ゼクへ。お前は一人じゃない。琥珀の刻印は、つながりの証だ。——父と母より』
手帳を胸に押し当てた。紙越しに、二十年前の温もりが伝わってくる——気がした。
「ありがとうございます、女王陛下」
「礼はいい。——お前の両親は立派な人間だった。息子も、そうらしいな」
◆
翌朝、廊下でアルセリアとすれ違った。
「ベルンマルク」
「何でしょう」
「一つだけ念を押しておく。ティアラの部屋への夜間訪問は禁じる。破った場合——カレンデュラの全軍を以て対応する」
「全軍……」
「姉の権利だ。過保護と言いたければ言え」
ティアが背後から走ってきた。「お姉さま、またゼクさんを脅さないでくださいっ!」
「脅していない。国防方針を伝えただけだ」
エルフの女王は、妹のことになると国家の軍事力を引き合いに出す女だった。




