第37話 翡翠の王国へ
エルデを発つ朝、ギルド支部長のガストンが見送りに来た。
「気をつけろよ。教会の連中がどこで待ち伏せしてるかわからん」
「世話になった。——円塔はそのまま残しておいてくれ」
「戻ってくるのか」
「ああ。あそこが俺たちの拠点だ」
ガストンが鼻を鳴らした。「いつの間にか、うちの名物冒険者になりやがって」
荷造りは拍子抜けするほど簡単だった。ロッコから譲り受けた空間収納鞄が、すべてを飲み込んでくれる。テント三張り、寝袋五つ、食料二週間分、予備の武器、リーリアの薬草箱、ティアの翻訳資料の束——馬車一台分の荷物が、肩にかけた革鞄一つに収まっている。
「便利だな、これは」
「便利すぎて不安になる。底が見えないんだが、入れたものは本当に出てくるのか」
「ニーナが昨日、中に潜って検証済みだ。出てきてここにいる」
「あれは検証じゃなくて事故!」
五人パーティーでの遠征。目的地はエルフの王国、カレンデュラ。ティアの記憶封印を完全に解くには、封印を施した術者——女王アルセリアの協力が不可欠だ。
出発前夜、マルクスから魔導通信があった。
「カレンデュラには行くべきだ。あの王国には——お前の家族の痕跡がある」
両親の痕跡。孤児院に俺を預けて消えた、二人の影。
通信が切れた後も、俺は琥珀色の指先を見つめていた。
◆
エルデから北東へ。街道を三日歩き、大深緑林に入る。
カレンデュラ王国はこの森林地帯の奥深くにある。人間の地図には正確な位置が載っておらず、エルフの案内なしには辿り着けないと言われている。
ティアの記憶が断片的に戻りつつあり、森の中の道標——特定の木の幹に刻まれた古い紋様——を読むことができた。
「この印は……国境まで、あと二日の距離です」
「読めるのか」
「身体が覚えているんだと思います。子供の頃に何度も通った道……その感覚だけが残っている」
ティアの琥珀色の瞳に、懐かしさと不安が入り混じっていた。
◆
初日の野営で、ヴァルが張り切って夕食を作ろうとした。
空間収納鞄から食材を取り出し、焚き火の前に立つ。全員が嫌な予感を覚えたが、元副団長に「お前には任せられない」とは誰も言えなかった。
三十分後、鍋の中身は形容しがたい色の液体と化していた。
「野草の煮込みだ。森で採れた香草をたっぷり——」
「ヴァルさん」ティアが鍋を覗き込み、目を細めた。「これ、香草じゃなくて苦蘇草です。解毒に使う薬草で、煮込むと毒性が——」
「毒か?」ニーナが匙を置いた。
「毒じゃない! 香草だ!」
「名前に『苦』の字が入ってる時点で食用じゃないだろ」
リーリアが顔色を変えている。全員で最も多く口にしていたのが彼女だった。「お腹が……回復魔法を自分にかければ大丈夫です……」
結局、俺が鍋を作り直し、ヴァルの料理当番はこの夜を最後に永久に剥奪された。
◆
二日目の夜。
テントは二つ。三人用と二人用だ。
「ティアとニーナとリーリアで三人テント。俺とヴァルが二人テントで——」
言いかけて、ヴァルの顔を見た。焚き火に照らされた碧い瞳が、こちらを真っ直ぐ見ている。反対でも賛成でもなさそうな、読みにくい目だった。
「異論は?」
「ない。妙な気は起こすなよ」
「全く起こす気はない」
「なら問題ない」
騎士団時代に野営で男と同室になることは日常だったのだろう。ヴァルにとっては実務の延長にすぎない。俺が構えすぎなのかもしれなかった。
◆
二人用テントに潜り込むと、思った以上に狭い。
背中合わせに寝袋を敷いたが、寝返りを打てば肩が触れる距離だ。テントの布越しに、霧雨が梢を叩くかすかな音が聞こえている。
ヴァルの呼吸が背中越しに伝わってきた。規則正しい。すでに眠ったのか——と思ったら、声がした。
「ゼク」
「何だ」
「……森は静かだな」
「ああ」
「騎士団の野営では、いつも誰かのいびきがうるさかった。三十人で野営すると、テントの中は足の臭いと体臭で——」
「もう少し別の話題はないのか」
「何がいい」
「何でもいいが、足の臭いの話よりはましな——」
「じゃあ寝る。おやすみ」
それきり、ヴァルは黙った。呼吸が深くなり、すぐに寝息に変わった。切り替えの早さは騎士の美徳なのかもしれない。
俺はしばらく天井を見つめていた。テントの布地に、霧雨の滴が影を落として流れていく。
いつの間にか、眠っていた。
◆
目が覚めたのは、右腕の感覚がなくなったからだった。
寝ぼけた頭で状況を整理する。右腕が重い。動かない。何かに挟まれている。柔らかくて、温かいものに。
首だけ動かして右を見た。
ヴァルが寝返りを打って、俺の右腕を丸ごと抱き込んでいる。背中合わせだったはずの体勢が完全に崩壊し、銀白の髪が俺の肩に散っていた。閉じた瞼の睫毛が長い。口元がわずかに開いて、小さな寝息を漏らしている。
そして腕が、胸に沈んでいる。
肘から二の腕にかけて、薄い寝巻きの上から直接、柔らかな重みに包まれていた。
夜中に暑くなったのか寝袋の前を開けており、ヴァルの体温と胸の弾力が布一枚隔てただけで俺の腕に伝わっている。呼吸のたびに膨らみ、緩み、また膨らむ。
腕を抜こうとした。ヴァルの眉がわずかに動き、抱く力がかえって強くなった。寝ぼけた声で何か呟いて、俺の腕に頬を擦りつけている。
テントの外が白み始めていた。あと三十分もすれば全員起きる。
腕を動かすたびにヴァルの顔が苦しそうに歪むのが見えた。夢の中で何かにしがみついているのだろう。半年間ひとりで辺境を転々とした日々を思えば、隣の温もりに無意識ですがりつく夜があっても不思議ではない。
結局、俺は腕を差し出したまま明け方の三十分を過ごした。血流は止まりかけたが、それよりも腕に伝わる柔らかさの方が、よほどこたえた。
◆
ヴァルが目を覚ましたのは、テントの外でニーナが焚き火をおこす音がしたときだった。
碧い瞳が開き、焦点が合い、自分が何を抱いているか理解するまでに三秒。
耳の先まで赤くなり、慌てて腕を弾くように離した。
そして、寝袋を頭から被った。
寝袋の中からくぐもった声が聞こえた。「いつからだ」
「明け方」
「なぜ起こさなかった」
「起こそうとしたが、腕を引くと逆に抱きつく力が増えた」
寝袋の中で呻く声がした。
「お前の寝相の話だぞ。俺に非はない」
しばらく寝袋は動かなかった。やがてヴァルが顔だけ出した。まだ赤い。
「もういい。忘れろ」
テントを出ると、焚き火の前でニーナが干し肉を齧っていた。黒い耳がこちらに向く。
「ごそごそやってたな。全部聞こえてたぞ」
「何も起きてない」
「心拍数の変動まで聞こえたんだが」
「勘弁してくれ」
ティアとリーリアが起きてきた頃には、ヴァルはすでにテントの外で剣の素振りを始めていた。普段より二割増しで力が入っている。何も聞くなという圧が、剣の軌道から伝わっていた。




