第9夜「年忘れ」
十二月の客は、ネクタイを緩めたまま入ってきた。
「いやあ、まいった、まいった」
酒の匂いはしなかった。忘年会帰りの格好なのに、素面だった。それが、かえって痛々しかった。
「幹事だったんですけどね。誰も、来なかったんですよ」
男は三十代の半ばくらいで、笑い方だけが上手かった。予約した店で二時間、一人で座っていたのだという。スマホには「ごめん、今年はちょっと」が八件。既読だけが四件。
「歩いてたら、坂の途中に門があって。……あ、ここ、忘れさせてくれるホテルなんですよね? 噂で聞いたことあります」
男はカウンターに肘をついて、指を一本立てた。
「今年一年。まるごと、お願いします」
岬のペンが、珍しく動かなかった。
「一年、まるごとですか」
「ええ。ろくなことがなかったんで。異動でしょ、査定でしょ、彼女には振られるでしょ、親父は倒れるでしょ。二〇二六年? ああ、そんな年ありましたっけ、って顔で年を越したいんです」
岬は少しの間、男を見ていた。それから、いつもの平坦な声で言った。
「一泊、お試しになってから決めても、遅くありません」
二〇七号室。鍵を渡すとき、男は上機嫌だった。
午後十一時、内線が鳴った。
『あの、変なこと訊きますけど……今日、何日でしたっけ』
十二月二十八日です、と答えると、男は黙った。長い沈黙のあとで、掠れた声がした。
『部屋のテレビ、一月一日って言ってるんですよ』
二〇七号室のテレビは、確かに正月番組を流していた。晴れ着のアナウンサーが、明けましておめでとうございます、と頭を下げている。画面の隅の日付は、一月一日。今年の、一月一日だった。
消しても、点けると同じだった。男が笑って「録画か何かでしょ」と言った矢先、部屋に置かれた日めくりが、ぱら、ぱら、と逆向きにめくれていった。十二月二十八日から、二十七日へ。
ぱら。二十六日。ぱら、ぱら。
日めくりは、過ぎたはずのページを取り戻すように、見ている前で厚くなっていった。十二月が終わり——いや、始まりへ向かって剥がれ、十一月の表紙が現れた。
「な、なんですか、これ」
「お客様が、お預けになろうとしているものです」
岬が戸口から言った。俺も気づかなかった。いつからいたのか。
「一年まるごと、というご注文でしたので。部屋が、巻き戻しているんです。……このままお預けになると、お客様は一月一日の朝に戻ります」
「戻る? 記憶が、でしょ」
「記憶が、です」
岬は頷いた。
「今年をまるごと忘れても、今年起きたことは取り消されません。異動先にも、査定の結果にも、別れたあとの暮らしにも、何も知らない顔で向き合い直すことになります」
日めくりが、ぱらぱらと戻り続けていた。十月。九月。八月。
男の顔から、酔ってもいない酔いが、すっと引いた。
「……待って。待ってください。それは」
それは忘れるというより、刑期じゃないか。男はそう呟いて、へたり込むように椅子に座った。日めくりは七月で、様子を窺うみたいに止まっていた。
男は結局、朝まで岬と俺を相手に、今年一年を最初から話した。訊かない、が規則だが、客が話すのを止める規則はない。
話してみると、と男は言った。
「……全滅では、なかったですね、今年」
異動先で一人だけ、うまい蕎麦屋を教えてくれた先輩がいた。親父は倒れたが、退院して、初めて親子で温泉に行った。彼女には振られたが、振られた夜に食った牛丼は、悔しいくらいうまかった。
「じゃあ、どの日を、お預けになりますか」
岬が預かり票を差し出した。男は長いこと考えて、一日だけ書いた。忘年会の、昨夜の日付。誰も来なかった、貸し切りみたいな座敷の二時間。
「それだけでいいです。あとは、まあ……持って帰ります。俺の年なんで」
スープは一口で済んだ。日めくりが、ぱら、ぱら、とめくれていき、十二月二十九日で止まった。
男が帰ったあと、フロントで台帳を整理しながら、俺はぼんやり考えていた。
一年をまるごと消しても、その一年を通った体と暮らしは残る。
なら——それまでの記憶を全部なくした俺には、何が残っていたんだろう。
俺の記憶は、病院で目覚めた、あの冬から始まっている。病院の記録の日付は、一月の頭だった。真っ白なベッドの上で、真っ白な頭で、明けましておめでとうございます、とテレビが言っていたのを、俺は人生最初の記憶として持っている。
一月一日。
日めくりの、いちばん最初のページから。




