第8夜「忘れない指」
十一月の客は、間違えて来た。
「ここは、忘れたい人のホテルなんですってね」
小柄な老婆だった。杖をつき、背中は曲がっていたが、目だけは若い人みたいにまっすぐだった。
「私はね、逆なんですよ。忘れたくないの。それでも、泊めてもらえますか」
忘れに来た客ではなかった。門をくぐれることと、泊まれることは同じではないらしい。ここで何を受け付けるかは、岬だけでなく、台帳も決める。
なのに、老婆はここにいる。門も、扉も、この人を通した。
岬は台帳を見つめて、数秒黙った。それから、ペンを取った。
「お泊まりいただけます。……お客様は、忘れたくないものを、忘れかけていらっしゃる」
老婆の話は、夕食の後、食堂の隅で聞いた。訊いたのではない。彼女がどうしても話したがった。
「六十年前にね、私、死ぬはずだったんです」
戦後の混乱がまだ尻尾を引いていた頃、身寄りをなくして、橋の上に立った。冬の川は黒くて、吸い込まれそうで。
「そのとき、通りすがりの人が、私に鞄を持たせたんです。『ちょっと持ってて』って。それだけ言って、自分は橋の欄干に腰かけて、握り飯を食べ始めて」
変な人でしょう、と老婆は笑った。
「鞄を持たされたら、飛べないじゃありませんか。仕方なく突っ立ってたら、『寒いから歩こう』って。歩いたら、『腹が減ったろう』って。……気がついたら、夜が明けてました」
名前も聞けないまま別れた。それでも六十年、その人の顔を思い出すたびに、生きてこられた。辛いときは、あの顔と、あの握り飯と、『ちょっと持ってて』を思い出した。
「それがねえ」
老婆は、湯呑みを置いた。手が少し震えていた。
「最近、思い出せないんです。声は覚えてる。握り飯の海苔の匂いも。なのに、顔だけが——顔のところだけ、白くなっていくの」
医者は、歳のせいだと言った。仕方のないことだと。
「でもね、夜間係さん。私、あの顔を忘れたら、私を生かしてくれたものを忘れたら——私の六十年は、誰に貰ったことになるんです?」
その夜、俺は初めて見た。
忘却が、人を襲うところを。
深夜、老婆の部屋から声がして駆けつけると、彼女はベッドに起き上がって、宙を掻いていた。
「消える、消える、待って」
部屋の空気の中に、うっすらと、映像のようなものが漂っていた。夢が漏れているのかと思った。けれど、溢れているというより、これは、剥がれ落ちていた。
冬の橋。黒い川。欄干。握り飯。
そして、こちらを向く誰かの顔。
その顔の部分だけが、白かった。塗り潰したような白ではない。雪が積もるように、ふちからじわじわと白くなっていく。老婆は必死に手を伸ばすのに、伸ばした指の先から、白は広がっていった。
「お客様、落ち着いて——」
「触らないで!」
鋭い声は、俺にではなかった。白に向かってだった。六十年分の、悲鳴だった。
そのとき、俺の横を、細い影がすり抜けた。
岬だった。
彼女は迷わなかった。宙に漂う剥がれかけの記憶——あの白くなっていく顔に、素手で、触れた。
白が、止まった。
雪がやむみたいに、ふっつりと。
岬の指の触れたところから、色が戻っていった。日に焼けた頬。笑い皺。海苔を噛む、欠けた前歯。六十年前の、名前も知らない、握り飯の人の顔が、部屋の薄闇の中に、確かに戻った。
「ああ……」
老婆は両手で口を覆って、それから、皺だらけの手を合わせた。記憶に向かって拝む人を、俺は初めて見た。
岬は黙って手を引いた。その横顔は、いつも通りの無表情で——でも俺は、彼女の指先が小さく震えているのを、見てしまった。
朝、老婆は晴れやかにチェックアウトした。
「不思議ねえ。もう、忘れる気がしないんですよ。ここに来る前は、砂が零れるみたいだったのに、今は、握ってる感じがするの」
何度も頭を下げて、老婆は十一月の光の中へ帰っていった。スープは、一口も飲まずに。
フロントで、俺は岬に訊いた。訊かない、が規則なのは客の事情だ。従業員のことは、規則の外だと思うことにした。
「岬さんが触ると、記憶は、消えなくなるんですか」
岬は台帳を整理する手を止めなかった。
「……留まるの。私が触れて、留めたものは」
「便利な指ですね」
「不便よ」
即答だった。平坦な声のまま、岬は台帳を閉じた。例のごとく、俺のページに一度、指を置いてから。
「忘れられないのよ、私は。何も。触れたものも、見たものも——あなたたちがスープで手放していくものを、全部」
それきり岬は、仕事に戻った。訊くな、という背中だった。
夜になって、見回りの途中、俺はふと足を止めた。
彼女はいつも、俺のページに指を置く。
最初の夜からだ。面接で、俺が「命」と名乗った、あの夜から。
まさか、と思ったとき、後ろから声がした。振り向くと、岬が非常灯の下に立っていた。仕事の連絡だけを伝えて、去り際に、彼女は一度だけ立ち止まった。
「……ねえ。前から言おうか迷ってたけど」
廊下の赤い絨毯を見たまま、岬は言った。
「私、あなたの名前だけ、忘れられないの。最初から」
「それは……岬さんは、何も忘れないんじゃ」
「そうじゃなくて」
岬は少しだけ振り向いた。無表情の、その目の奥だけが、微かに揺れていた。
「忘れられない、の質が違うの。他のは、覚えてる。あなたのは——」
彼女はそこで言葉を切って、首を振って、行ってしまった。
赤い絨毯の廊下に、俺だけが残された。
覚えてる、と、忘れられない。
同じことのはずなのに、同じじゃない。その違いが分かりそうで、分からなくて、俺はしばらく、自分の名前を、口の中で転がしていた。
命。
病院がくれた、はずの名前を。




