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第7夜「帰らない客」

 十月六日にチェックインしたその男は、月の半ばを過ぎても、まだ三〇九号室にいた。

 このホテルの客は、長くても二泊で発つ。忘れるだけなら、一晩あれば足りるからだ。だが男は毎朝フロントに降りてきては、同じことを言った。

 「延泊で」

 岬は何も訊かずに頷く。訊かないのが規則だ。ただ、十月十六日の朝、俺は見てしまった。延泊、と書き込む岬のペン先が、台帳の上で、ほんの少しだけ迷ったのを。


 最初の異変は、清掃だった。

 三〇九号室のベッドの位置が、毎日ずれている。客が動かしたのかと思ったが、そうではなかった。ベッドだけじゃない。窓のない壁に、うっすらと窓の形の染みが浮き、次の日には消え、その次の日には反対の壁に浮いた。

 部屋が、間取りを思い出せなくなっている。俺にはそう見えた。

 十月二十日、内線が鳴った。

 『……天井が、低くなってる気がする』

 三〇九号室に行くと、男は部屋の真ん中に立っていた。四十代の、体格のいい男だった。なのにその夜は、天井に頭がつきそうに見えた。実際、部屋は狭くなっていた。ドアを開けたまま比べれば分かる。廊下から見える部屋の奥行きと、中に入ったときの奥行きが、合っていない。

 「なあ、夜間係さん」

 男は天井を見上げたまま言った。

 「ここ、忘れさせてくれるホテルなんだろ。なんで俺を、追い出そうとするんだ」

 「部屋が、ですか」

 「毎晩な、狭くなるんだ。壁がじりじり寄ってくる。ベッドが扉のほうへ滑ってく。眠ってる間に、部屋ごと俺を、玄関へ運ぼうとしてるみたいに」

 男は笑ったが、目は笑っていなかった。

 「冗談じゃない。俺は忘れるまで帰らないぞ。忘れるって、あいつと約束したんだ」


 その夜、男は初めて自分から話した。廊下に椅子を出して、狭くなる部屋を見張りながら。

 「女房が死ぬ前にな、言ったんだ。『私のことはいいから、忘れて、次の人を見つけて』って。俺は、うんと言った。うんと言っちまった」

 だから忘れに来た。もう半月になる。毎晩スープを頼む。毎晩、飲めない。

 「スプーンを口元まで持ってくと、あいつの顔が浮かぶんだよ。……なあ、おかしいだろ。忘れるためのスープの湯気の向こうに、一番忘れたくない顔が浮かぶんだ」

 忘れたくない、と男は言った。言ってから、自分の言葉に殴られたような顔をした。

 「——違う。忘れなきゃならないんだ。約束したんだから」

 部屋の中で、みし、と音がした。壁が、また少し、寄った。


 答えたのは、俺でも岬でもなかった。

 部屋そのものだった。

 男が「忘れたくない」と口にした、その一瞬だけ——壁が、止まっていた。俺は見ていた。男が「忘れなきゃ」と言い直した途端、部屋はまた、じり、と狭くなった。

 「お客様」

 いつの間にか、岬が廊下に立っていた。

 「このホテルは、忘れたい方のためのホテルです」

 平坦な、いつもの声だった。

 「忘れたくない方が長くいらっしゃると——建物が、困ります」

 男は、口を開けて、岬を見た。それから、狭くなった自分の部屋を見た。半月分の夜が、ゆっくりと男の顔の上で解けていくのが分かった。

 「……俺は、忘れたくなかったのか」

 誰も答えなかった。壁も、もう動かなかった。


 男は最後の一泊を願い出た。岬は頷き、台帳に「延泊」と書いた。今度は、ペン先は迷わなかった。

 その夜、三〇九号室は静かだった。部屋は元の広さに戻り、男は十五日ぶりに、朝まで眠ったらしい。

 チェックアウトの朝、男は自分の手で鍵をカウンターに置いた。

 「約束は、守れませんでした、って墓に言ってくるよ。……あいつのことだ、たぶん、知ってたな。俺が忘れられないって。分かってて、ああ言ったんだ」

 スープ代は要らない、と岬は言った。一度も飲まなかったからだ。男は笑って、財布をしまって、玄関へ歩いた。

 扉の前で、男は振り返った。

 「夜間係さん。あんた、ずっと不思議だったんだけどな」

 「はい」

 「この半月、俺が『忘れられない忘れられない』って唸ってるのを、あんた、一度も変な顔をしないで聞いてたろ。普通はどっかで呆れるぜ。それか、忘れちまえって背中を押すか」

 男はドアノブに手をかけて、こっちを見ずに言った。

 「あんた、俺と同じ側だろ」

 扉が開いて、十月の朝の光が差して、男は出ていった。

 同じ側。

 忘れられない側、という意味だと思った。でも俺には、忘れられないほどの記憶が、そもそもない。

 ないはず、なのに。

 スープの湯気の向こうに一番大事な顔が浮かぶ、と男が言ったとき——俺は、なぜだか一度も、それを不思議だと思わなかったのだ。

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