第6夜「呼ばれすぎた名前」
九月の客は、サングラスをかけたまま入ってきた。
窓のないホテルの、夜のフロントで、サングラス。それだけで、この人が「見られること」から逃げてきた人だと分かった。
「チェックインを」
女の人だった。二十代の後半くらい。声が良かった。良すぎて、話し声なのに、どこか歌みたいに聞こえた。
岬が台帳を開く。
「お名前を」
女の人は、そこで初めて詰まった。
「……どっちを、書けばいいんですか」
岬は顔を上げず、いつもの平坦な声で答えた。
「捨てたくないほうを」
女の人はしばらく黙って、それから、サングラスを外した。テレビか何かで見たことのある顔、のような気がした。俺は芸能に疎い。でも、疎い俺の記憶にすら引っかかるということは、そういうことなのだろう。
彼女は台帳に、地味な、どこにでもある名前を書いた。書き終えて、小さく息を吐いた。
「十年ぶりに書きました。この名前」
深夜零時を回った頃、それは始まった。
『——ちゃん、——ちゃん』
天井のスピーカーから、声がした。
このホテルに、館内放送の設備なんてない。少なくとも俺は、勤めて半年、一度も聞いたことがない。なのに天井のどこかから、若い女の声が、明るく、跳ねるように、同じ名前を繰り返していた。
彼女の芸名だった。
『——ちゃーん! こっち向いてー!』
声は一人分ではなかった。二人、十人、百人。廊下の天井を伝って、声はフロントまで満ちてきた。手拍子。指笛。名前、名前、名前。
二〇八号室の扉が開いて、彼女が廊下に出てきた。耳を塞いでいた。
「すみません、すみません、私のせいです、私が連れてきたんです」
「お客様のせいでは——」
言いかけて、やめた。事情は訊かない。でも、目の前で客が廊下にうずくまるのを見ているのも、夜間係の仕事ではない。
俺は彼女を食堂に連れて行った。声は食堂の天井にもいた。ただ、湯気の立つフロアでは、少しだけ薄まった。誰も喋らない客たちの間で、その声だけが場違いに明るかった。
「引退して、三年経つんです」
彼女は湯呑みを両手で包んで言った。
「もう誰も呼ばないのに、頭の中では、ずっと呼ばれてる。眠るときも、お風呂でも。あの名前で呼ばれてた頃の私が、一番私で、今の私は、抜け殻の方なんじゃないかって」
だから、忘れたい。あの名前も、呼ばれた日々も、全部。
ボーイが、音もなくスープを置いた。
彼女はスプーンを取った。天井の声が、一段大きくなった。引き留めるみたいに。あるいは、送り出すみたいに。
「……あの」
スプーンを持ったまま、彼女は俺を見た。
「最後に、一つだけ訊いていいですか。これを飲んだら、私、あの頃の私に、ありがとうって言えなくなりますよね」
規則の内側で答えられることを、俺は探した。
「言えなくなります。言いたかったことも、消えるので」
彼女は長いこと、スープの白い水面を見ていた。水面に、天井の声が細かい波を立てていた気がする。
やがて彼女は、スプーンを置いた。
「半分だけって、できますか」
できた。俺も知らなかった。
岬がフロントから小さな紙片を持ってきて、彼女の前に置いた。預かり票だった。品目の欄に、岬は彼女に訊きながら書き込んだ。
——芸名で呼ばれた日々のうち、痛かった分。
「呼ばれて嬉しかった分は、お持ち帰りになりますか。……分けて言えるものは、分けてお預かりできます」
岬の問いに、彼女は泣き笑いみたいな顔で頷いた。
スープは、半分だけ飲まれた。
天井の声は、ゆっくりと拍手に変わって、それから、潮が引くように消えた。最後に一人分だけ、小さな声が残った。ありがとう、と言ったのは、天井の声だったのか、彼女だったのか、分からなかった。
朝、彼女はサングラスをかけずに帰っていった。
「本名のほう、久しぶりに名乗ったら、案外いい名前でした」
台帳には、地味な、どこにでもある名前だけが残った。芸名で呼ばれた痛みの方は、預かり票と一緒に、岬がどこかへ仕舞った。
その台帳を閉じる前に、岬はページを一枚めくった。従業員のページだ。俺の名前が書いてある、あのページ。
岬は何かを書き足すでもなく、ただ、俺の名前の上に指先を置いた。一秒か、二秒。それから静かに台帳を閉じた。
思い返せば、岬はいつもそうする。台帳に触るとき、必ず一度、俺のページに指を置いてから閉じる。
癖なのだと思っていた。
でも、呼ばれすぎて磨り減る名前があるのなら——触れられて、留まる名前も、あるんだろうか。




