第5夜「盆の二部屋」
八月の半ば、同じ夜にふたり、客が来た。
最初の客は中年の男で、喪服みたいな色のシャツを着ていた。
「妻を、忘れたい」
カウンターに両手をついて、絞り出すように言った。「二年前に死んだ。……八月が来るたびに、俺も一緒に死ぬ。もう、限界なんです」
三〇五号室。
二番目の客は、藍色の浴衣の女の人だった。静かにチェックインして、静かに言った。
「三〇六号室を、お願いします」
部屋番号を指定する客は、珍しい。岬はペンを止めなかったが、書き終えたその一行は——俺には分かった。インクが、薄かった。
深夜、三階から内線が鳴った。三〇五の男だった。
「隣がうるさい。壁を、叩いてくる」
行ってみると、廊下は静かだった。男が部屋の中で苛立たしげにグラスを置く。コト、と音がする。
すると壁の向こうでも、コト、と音が返った。
男が舌打ちして椅子を引く。壁の向こうでも、椅子の脚が床を滑る音がした。
「な? 全部、真似してくるんだ」
男は廊下に出て、三〇六の扉を拳で叩こうとした。
その前に、扉がひとりでに開いた。
部屋は空だった。誰もいない。灯りも点いていない。ただ、窓のないはずの部屋のどこかで、風鈴がひとつ、ちりん、と鳴った。
そして、暗い部屋の奥から、音がした。
トン、トン。
二回。
男の顔から、怒りが抜け落ちた。血の気も一緒に抜けた。
「……この、叩き方」
風呂場のドア越しの合図だったんです、と男は言った。訊いてもいないのに、言葉が零れ落ちていった。あいつが二回叩くと、俺が一回返す。「いるよ」っていう、それだけの合図で。
男はのろのろと拳を持ち上げて、開いた扉の枠を、一回だけ、叩いた。
トン。
暗い部屋の奥で、衣擦れの音がした。誰かがほっとして、座り直したような音だった。
男は明け方、二階の食堂にいた。
目の前のスープは、とっくに湯気が細くなっていた。男はスプーンに触りもせず、長いこと白い水面を見ていた。
それから立ち上がって、三階へ戻り、三〇六号室の閉じた扉の前に立った。
「——忘れない」
扉に向かって、男は言った。
「忘れないで、ちゃんと悲しむ。悲しんで、それから、ちゃんと飯を食う。だから」
もう、心配するな。
扉の向こうで、風鈴が、ちりん、と一度だけ鳴った。
朝、三〇六号室はチェックアウト済みだった。誰も、玄関から出ていく姿を見ていない。台帳のその一行は、もう白くなり始めていた。
三〇五の男はスープを残したまま、少し軽くなった足取りで帰っていった。
俺は食堂で、残されたスープの盆を下げた。
湯気は、まだ細く立っていた。
ふいに、懐かしい匂いがした。
知らない台所。遠い湯気。誰かの背中。そんなもの、俺の三年間のどこにもないのに、匂いだけが、確かに懐かしかった。
気がつくと、俺の手はスプーンに伸びていた。
皿の縁を、白い手が押さえた。
岬だった。素手で、熱いはずの皿の縁を、押さえていた。
「あなたは、駄目」
いつもの平坦な声だった。ただ、皿を押さえた手は、離れなかった。
「絶対に、駄目」
理由を訊こうとすると、岬は皿から手を離さずに言った。
「預けるものを決める前に、口にしないで。……それに、これは、あなたの票のスープじゃない」




