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第4夜「常連さん」

 七月の夕立と一緒に、ビニール傘の男が来た。

 「いらっしゃいませ」

 岬が顔を上げて、それから、ほんの少しだけ間を置いた。

 「……今月も、お待ちしておりました」

 「え? いや、初めてですが」

 男は五十がらみで、人の好さそうな、少し疲れた顔をしていた。濡れたビニール傘を几帳面に畳んで、傘立てに入れる。

 俺は思い出していた。この人を見るのは、初めてじゃない。四月にも、五月にも、六月にも、雨の夜にチェックインして、翌朝、晴れやかな顔で帰っていった。

 でも男のほうは、毎回、初めての顔でここへ来る。

 「忘れたいことが、ありまして」

 男は言った。「雨の日のことなんです。それだけ、とにかく、それだけ」


 四一一号室の扉を開けた男が、廊下まで後ずさってきた。

 「か、傘が」

 部屋の壁に沿って、ビニール傘が並んでいた。全部同じ傘だった。全部、開かれもしないのに濡れていて、絨毯に静かな染みを作っていた。

 一本、二本——数えて、俺は途中でやめた。二十本以上あった。

 「前の客の忘れ物でしょう。片付けてください」

 「お客様のです」

 いつの間にか、岬が後ろに立っていた。

 「全部、お客様が置いていかれたものです。毎月、一本ずつ」

 男は笑おうとして、失敗した。たった今傘立てに入れてきたものと同じ傘が並ぶのを見て、ゆっくりと部屋に入り、一番手前の一本に触れた。

 触れた瞬間、男の顔から表情が落ちた。

 「……バス停だ」

 夕立。傘のない若い女の人。すみません先に行きますね、と笑って、雨の中へ走り出して。交差点。ブレーキの音。

 「俺は、傘を差したまま、動けなかった」

 名前も知らない人だった。だから葬式にも行けない。誰にも話せない。悲しむ資格があるのかも分からない。

 「それで、忘れに来るんですね。毎月」

 俺は規則の内側で、見えているものだけを口にした。

 「忘れて、帰って。でも一か月すると、雨が降るたびに胸が痛くなって、痛みの理由を探して、またここに辿り着く。そして、傘が一本増える」

 男は、傘の列の真ん中に、座り込んだ。

 「……俺は毎月、あの人を、忘れてるのか」

 男が毎月預けていたのは、事故の場面だった。場面を手放しても、票に書かなかった悲しみは、名前を失くしたまま残っていた。名前のない悲しみは、名前のある悲しみより、たぶんずっと質が悪い。


 その夜、男はスープを頼まなかった。

 翌朝、四一一号室の傘は、一本を残して全部消えていた。男はその一本を持って、チェックアウトした。

 「今度、雨が降ったら」

 と、男は照れくさそうに言った。

 「誰かに貸します。それくらいしか、できないので」

 玄関で、男はふと振り返った。俺の顔を見て、首を傾げた。

 「あんた……前に、どこかで」

 数秒、宙を探して、男は諦めたように笑った。

 「いや。初めてですね、失礼」

 扉が閉まる。雨は上がっていた。

 忘れた側の人間は、ああいう顔をするのか、と思った。

 覚えのない懐かしさに、首を傾げる顔。宙を探して、見つからなくて、諦めて笑う顔。

 ——俺も、誰かの前で、あの顔をしているんだろうか。

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