第3夜「匂いのする部屋」
六月の客は、傘を持っていなかった。
外は梅雨の走りで、夜通し細い雨が降っていたはずだ。なのに制服の少女は、髪も鞄も濡らさずに、玄関の赤い絨毯の上に立っていた。放課後からまっすぐ歩いてきて、そのままここに着いてしまった、という顔をしていた。
「匂いを、忘れたいんです」
チェックインの理由を、客は言わなくていい。それでも言う客は、たいてい、ずっと誰かに言いたかった人だ。岬は頷いて、鍵を渡した。二一〇号室。
案内の途中、少女は廊下の照明を一本ずつ数えるように見ていた。
夜、内線が鳴った。二一〇号室。
「電気が、点かなくて」
行ってみると、部屋は真っ暗だった。スイッチを入れても、天井の明かりは反応しない。廊下から光は入るのに、部屋の中には届かない。敷居のところで、光が諦めているみたいだった。
俺は事務室からランプを持ってきた。扉のところで灯して、一歩入る。三歩目で、ランプが消えた。
そして、匂いがした。
埃と、日の当たらないカーテンと、古い水道の匂い。ホテルの部屋の匂いではなかった。もっと広くて、天井が高くて、長いあいだ誰も使っていない場所の匂いだった。
「これです」
暗がりの入り口で、少女が言った。
「あの教室の、暗さと、匂い」
訊かない、が規則だ。俺は黙っていた。少女は、暗い部屋に向かって話し始めた。俺にではなく、たぶん、匂いの向こうに向かって。
「学校に、使ってない教室がいっぱいあるんです。子供が減ったから。一番奥の教室は、防犯で鍵がかかってるはずなのに、あの日だけ、開いてて」
中で、友達が泣いてたんです、と少女は言った。
「私、見なかったことにしました。声をかけたら、私まで、そっち側になる気がして。……それから、あの子、学校に来なくなりました」
匂いだけが、ずっと取れないんです。教室の前を通らなくても、給食のときも、家のお風呂でも、ふっと、あの匂いがする。
二階の食堂に案内した。
夜中なのに、広いフロアのあちこちで客が食事をしている。誰も喋らない。湯気だけが、たくさん立っている。
ボーイが、少女の前にスープを置いた。白い、なんでもない見た目のスープだ。先に票へ書くのは、手放したい記憶の範囲だ。この票の記憶は、飲み下して初めて本人から離れ、ホテルの預かりになる。飲まずに帰れば、その記憶は本人のもとに残る。
少女はスプーンを取って、止めた。
「夜間係さん。忘れたら、私、楽になりますよね」
「なると思います」
「あの教室で泣いてたあの子のことも、一緒に消えますよね」
俺は少しだけ迷って、規則の内側で答えられることだけを答えた。
「今の票では、匂いも、その子の姿も、あの教室の一場面として書かれています。そのまま預ければ、一緒に消えます」
少女はスプーンを置いた。カチ、と小さい音がした。
「あの日のこと、覚えてるの、たぶん世界で私だけなんです。あの子は忘れたいだろうから。……なら、匂いごと持って帰ります」
今度こそ、声をかけるので。
そう言って、少女は手つかずのスープの前で、初めて年相応の顔で笑った。
朝、二一〇号室の照明は、何事もなかったように点いた。匂いも消えていた。消えたというより、少女と一緒にチェックアウトしていった、という感じだった。
「ねえ」
見送りのあと、岬が言った。
「昨日、ランプが消えたとき、よく平気で突っ立ってられたね」
言われて、初めて気づいた。
真っ暗な部屋。知らない匂い。普通は、少しくらい怖いのかもしれない。
でも俺は、暗闇を怖いと思ったことが、一度もない。三年分の記憶のどこを探しても、ない。怖くなかった記憶ならある。怖がり方だけが、見つからない。
まるで、ずっと長いあいだ暗い場所にいて、とっくに慣れてしまった後みたいに。




