第2夜「一人部屋の客」
五月の夜は、雨上がりの匂いと一緒に来た。
窓のないこのホテルでも、季節は分かる。玄関の扉が客を迎え入れるたび、外の空気が赤い絨毯の上を少しだけ渡っていくからだ。
その夜の客は、匂いを連れていなかった。
「一人部屋を、お願いします」
四十くらいの女の人だった。荷物はなく、化粧気もなく、ただ姿勢だけが妙に正しかった。長くベッドの上にいた人が、久しぶりに自分の足で立ったときの、あの正しさだった。
「誰も来ない部屋を」
岬は何も訊かずに台帳へペンを走らせ、俺は三〇二号室まで案内した。鍵を渡すとき、指先が触れた。ひどく冷たかった。五月の夜にしても、冷たすぎた。
「ごゆっくりどうぞ」
女の人は、部屋の中を懐かしそうに見回してから、小さく頭を下げた。
異変は、午前二時に起きた。
見回りの途中、三階の廊下に笑い声が聞こえた。三〇二号室からだった。誰も来ない部屋を、と言った客の部屋からだ。
急ぎかけて、足が止まった。
廊下の先から、人が歩いてくる。果物籠を提げた老人だった。俺に軽く会釈して、三〇二の扉を叩き、返事も待たずに入っていく。続いて、白い服の女の人。それから、小学生くらいの子供がふたり。みんな当たり前の顔で扉を叩き、当たり前の顔で入っていった。
宿泊客ではない。今夜の台帳に、あんな客はいなかった。
俺は扉を叩いた。
「夜間係です。失礼します」
開けた先は、ホテルの部屋ではなかった。
白いベッド。淡い色のカーテン。窓があった。このホテルに、窓なんてないはずなのに、そこには夕方の光が差していた。ベッドの周りにパイプ椅子が並び、さっきの人たちが座って、みかんを剥いたり、湯呑みにお茶を注いだりしている。
ベッドの上に、あの女の人がいた。
毛布を握りしめて、目を丸くして、来客たちを見ている。怯えているようにも見えた。
女の人の様子を確かめようと、俺は扉の内側へ一歩踏み込んだ。
「お客様。この方たちを、お帰しし——」
肩を、後ろから掴まれた。岬だった。いつの間に来たのか、足音はしなかった。
「お客様の事情は、訊かない」
「でも、誰も来ない部屋をって」
「追い返すのも、事情に触ることになる」
岬は俺の肩を掴んだまま、顎で部屋の中を示した。
「見て」
老人が何か言った。くだらない話だったんだと思う。子供が笑い、白い服の女の人が笑い、それから、ベッドの上の女の人が笑った。
笑いながら、泣いていた。
毛布を握っていた手が、いつの間にか、剥いてもらったみかんを持っていた。
俺と岬は、扉を静かに閉めた。
朝、三〇二号室は普通のホテルの部屋に戻っていた。窓はなく、パイプ椅子もなく、みかんの皮ひとつ落ちていなかった。
チェックアウトのとき、女の人はスープを頼まなかった。
「忘れたかったのは、病室じゃなかったんです」
鍵をカウンターに置いて、彼女は言った。
「誰も来なかった、あの何十日かでした。……でも、昨日、来ましたから」
もういいんです、と彼女は笑った。昨夜の、泣きながらの笑い方と同じだった。
玄関の扉が、触れる前にひとりでに開いた。朝の光が絨毯の赤を薄く伸ばした。彼女は敷居のところで一度だけ振り返り、深く頭を下げて、光の中へ出ていった。
最後まで、足音はしなかった。
思えば、来たときから一度も、彼女の足音を聞いていなかった。
昼前、台帳の整理をした。
昨夜のページを開いて、手が止まった。
彼女の一行だけ、インクが薄い。書いた岬の字は、他の行と同じはずなのに、そこだけ乾いた水たまりみたいに色が抜けて、日付の数字は、もうほとんど読めなかった。
「記録には」
隣から岬が言った。台帳を覗きこみもせず、まるで最初から知っていたみたいに。
「残る側と、消えていく側があるの」
夕方にもう一度見たとき、その行は白かった。
俺はなぜか、その何も書かれていない一行から、しばらく目が離せなかった。




