第1夜「赤い絨毯」
財布の中に、見覚えのないカードが一枚入っていた。
《夜間係、求む。忘れたいことのある方は、不可。》
裏には住所だけが印刷されていた。店の名前もない。時給もない。
普通なら捨てる。だがその夜の俺の持ち物は、今月の家賃の督促と、三日分の食費と、断られ続けた面接の記憶だけだった。
俺の人生は、三年と少し前の一月から始まっている。
名前は病院でつけてもらった。歳は骨から推定してもらった。それより前のことは、何ひとつ覚えていない。履歴書の空白を、面接官は必ず二度見する。それから必ず、丁寧な言葉で落とす。
——忘れたいことのある方は、不可。
妙な条件だと思った。ふつう逆だろう。けれど、それなら俺ほど向いている人間もいない。忘れたいことどころか、俺には、忘れたことしかないのだから。
カードの住所は、駅裏の古い坂の途中を指していた。
何度も通った坂のはずだった。なのにその夜は、坂の中ほどに、見たことのない鉄の門があった。門の奥、街灯の届かない暗がりに、ホテルが建っていた。古いが、みすぼらしくはない。むしろ上等すぎて、この町から浮いていた。
玄関の扉は、押す前に開いた。
中に入って、まず思った。フロントがない。
あるのは廊下だった。赤い絨毯が、まっすぐ奥へ延びている。壁には燭台のかたちをした照明が等間隔に灯り、その光が届かない先は、ただ暗い。
ドアがない。窓もない。
十歩ほど進んで、さすがに引き返そうと振り返った。入ってきたはずの扉が、ずいぶん遠くにあった。十歩どころではない距離だった。
背中が少し冷えた。それでも足が戻らなかったのは、廊下の先に、白いものがうずくまっていたからだ。
人だった。
白いドレスの女性が、赤い絨毯の上に膝をついていた。二十代の前半くらいに見える。具合が悪いのか、細い肩が小さく上下していた。
「大丈夫ですか」
声をかけると、女性はゆっくり顔を上げた。
綺麗な人だ、と思うより先に、その目の暗さに足が止まった。深い井戸を覗いたときの、あの感じに似ていた。
「ここは、何処ですか」
女性はそう言った。助けを求める声ではなかった。もっと古い、ずっと前から繰り返されてきた問いのような、平坦な声だった。
「……すみません。俺も、今来たばかりで」
答えになっていない答えを返すと、女性は俺の顔をじっと見た。それから、何かを確かめるように、もう一度見た。
そのとき、背後で足音がした。
絨毯の上なのに、靴音がやけにはっきり聞こえた。振り向くと、女が立っていた。
黒いベストの制服。ショートカット。歳は俺と同じくらいだろうか。表情というものが、顔のどこにも見当たらなかった。
「お客様ですか」
「いえ、あの、求人の——」
カードを見せかけて、思い出した。廊下の女性が先だ。
「それより、この人が具合を——」
振り返った先の絨毯には、誰もいなかった。
白いドレスの裾の影さえ、残っていなかった。俺は口を開けたまま、赤い絨毯と制服の女を交互に見た。女は俺の顔ではなく、俺が指した絨毯の一点を、二秒だけ見た。
「お客様のことは、訊かないでください」
「……客、なんですか。今の」
「面接ですね。こちらへ」
答えは、なかった。
角を曲がると、フロントがあった。
さっきは確かに、この廊下に曲がり角などなかった。そう思ったが、口には出さなかった。この建物では、思ったことを全部口に出していたら、たぶん夜が明ける。
女はカウンターの内側に入り、分厚い台帳を開いた。
「お名前は」
「命と書いて、みことです」
「下のお名前を伺っています」
「それが下の名前です。姓は……病院がくれた仮のものなので、あまり」
女は顔を上げなかった。ペンが動き、台帳に「命」とだけ記された。
「経歴は」
「三年分しかありません」
ペンが止まるかと思った。止まらなかった。
「三年前より前は」
「覚えていません。病院ではそう診断されました。……困りますか」
「いいえ」
女は初めて俺の目を見た。
「この仕事では、その方が向いています」
冗談の気配はなかった。この人は冗談を言う顔をしていない。ただ、事実を読み上げただけだった。
「規則は三つです」
女は指を立てもせず、続けた。
「お客様の事情を訊かないこと。お客様の名前を呼びすぎないこと。三階の突き当たりにある階段を、降りないこと」
「……下?」
「客用階段とは別です。食堂や客室へ行く階段は、使って構いません」
このホテルに入ってから、俺はまだ階段を一段も見ていない。訊き返したが、女は台帳に視線を戻しただけだった。訊かないこと、という規則は、どうやら客だけの話ではないらしい。
「仕事は夜間の見回りと、お客様の御用聞きです。いつから来られますか」
「今夜からでも」
「では、今夜から」
あっさりしすぎていて、雇われた実感がなかった。時給の話も、契約書もない。ただ、断られなかった。三年間で、初めてだった。
女は従業員のページに俺の名を書き終えると、確認のためか、台帳を何枚か手前へめくった。
宿泊客の記録らしかった。細かい字がびっしりと並ぶページが、何枚も続く。
その中に、一行だけ、空白があった。
前後の行は埋まっているのに、そこだけ、名前の欄が白かった。日付や数字はある。名前だけが、ない。まるでそこに書かれていたものが、ページから降りてしまったみたいに。
女のペン先が、その一行の上で、一瞬だけ止まった。
彼女は何も言わずにページを閉じた。
「命さん」
名を呼ばれて、顔を上げた。呼びすぎるなと言った本人の声は、意外にやわらかかった。
「今夜から、よろしくお願いします。私は岬。フロント係です」
「よろしくお願いします。……あの、最後にひとつだけ。ここは、何のホテルなんですか」
岬は少しだけ考えて、答えた。
「忘れたい人が、泊まりに来るホテルです」
——忘れたいことのある方は、不可。
カードの一文が、裏返って腑に落ちた。客になれない人間だけが、ここで働けるのだ。
赤い絨毯の廊下を思い出す。あの白い人の、平坦な声も。
ここは、何処ですか。
その答えを、俺もまだ知らない。




