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第10夜「初夢の客」

 一月の客は、目の下に隈を飼っていた。

 「三が日で、三回見ました」

 画家だという男は、チェックインの前からもう話し始めていた。五十絡みで、指のあちこちに絵の具が染みていた。

 「同じ夢です。もう十年、同じ夢なんです。初夢くらい、違う夢が見たかった」

 どんな夢かは、言わなかった。訊かないのが規則だから、こちらも訊かない。ただ男は、鍵を受け取るとき、こう付け足した。

 「描けない絵の夢ですよ。……ずっと、描けないままの」


 異変は、その夜のうちに来た。

 最初は、三〇一号室の老客だった。眠れない、と内線があって、俺が伺うと、老人は妙なことを言った。

 「白いカンバスの夢を見ましてな。大きな、白い、まっさらなカンバス。目の前にあるのに、儂は筆が持てんのです。手が、こう、竦んでしもうて」

 次は二〇四号室の若い女の客だった。同じ夢だった。白いカンバス。持てない筆。竦む手。

 夢が、漏れている。

 四〇二号室——画家の部屋の扉の前に立つと、それが分かった。扉の隙間から、うっすらと白いものが廊下へ流れ出していた。湯気に似ていたが、湯気より重く、絨毯の上を這うように広がっていく。廊下の赤が、そこだけ雪をかぶったみたいに白かった。

 白は、他の部屋の扉の下から、するすると入り込んでいた。

 「岬さん、これ」

 「夢よ」

 岬は白いものを踏まないように立って、眉ひとつ動かさずに言った。

 「十年も同じ夢を見続けると、夢のほうが、体に入りきらなくなるの。溢れた分が、漏れる」

 「客に、伝染してますけど」

 「だから、今夜中に回収する」

 回収、と俺が訊き返す前に、廊下の奥から足音のない気配が来た。

 ボーイだった。

 二階の食堂で、いつも黙ってスープを運んでいる、あの背筋のまっすぐな給仕。彼は銀の盆を片手に載せて、白い流れの真ん中を、まるで濡れない人みたいに歩いてきた。

 そして四〇二号室の扉の前で膝を折り、絨毯を這う白いものの端を、指先で、つ、と持ち上げた。

 白は、布のように持ち上がった。

 ボーイはそれを、洗濯物でも畳むような手つきで折り畳み、銀の盆に載せた。廊下中に広がっていた白が、するすると手繰られて、盆の上で小さくなっていく。あれだけ広がっていたものが、最後にはハンカチほどの、白い四角になった。

 ボーイは一礼して、白い四角を載せた盆を掲げ、客用階段を降りていった。

 三階の踊り場から、あの突き当たりへ向かう背中が見えた。

 「あれ、どこに持っていくんですか」

 「保管庫」

 岬は短く答えて、それ以上は言わなかった。三階の突き当たりにある階段を降りないこと。規則の三つ目が、頭の隅で鳴った。


 朝、画家は十年ぶりに夢を見ずに眠れた、と言った。

 ただ、チェックアウトの段になって、彼はスープを断った。

 「夢は、置いていきます。でも、思い出しました。あの白いカンバス、竦んでたのは手じゃない。俺だ。……あれに描くはずだったものを、俺はまだ、覚えてるんですよ」

 覚えてるうちは、描けるかもしれないでしょう。

 画家は絵の具の染みた指で帽子を持ち上げて、一月の光の中へ出ていった。

 見送ったあと、俺はふと、岬に訊いた。

 「夢って、みんな、あんなふうに溢れるものなんですか」

 「十年も煮詰めれば、誰でも」

 「じゃあ、俺のも、いつか漏れますかね」

 岬が、俺を見た。

 何気なく言ったつもりだった。でも言葉にした瞬間、自分で気づいてしまった。

 俺は、夢を見たことがない。

 病院で目覚めてからの四年、一度も。眠りはいつも、消灯と同じだ。ぷつりと切れて、ぱちりと点く。その間には、何もない。白いカンバスすら、ない。

 「……漏れるほどの夢が、ないみたいです」

 笑って流そうとした俺に、岬は何も言わなかった。

 ただ、彼女の視線が一瞬、廊下の奥——ボーイが消えていった、降りる階段のほうへ動いたのを、俺は見逃さなかった。

 夢は、保管庫に仕舞える。

 なら、四年前に俺からなくなったものも——あの下と、どこかで繋がっているんだろうか。

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