第11夜「白い人」
二月の客は、部屋から出てこなかった。
チェックインのときから様子がおかしかった。四十代の男で、出張帰りの身なりなのに、鞄の持ち手を両手で握りしめて、何度も玄関を振り返った。
「あの、変なことを訊きますが……このホテル、白い服の女の人、いますか」
岬のペンが、止まった。
「白いドレスの、若い女の人です。廊下で、こう、うずくまってて」
男は昨夜、別の用でこの坂を通ったのだという。鉄の門が開いていて、玄関の奥に赤い絨毯が見えて、その絨毯の上に、白いドレスの女性がうずくまっていた。
「声をかけようとしたら、顔を上げて。……目が、合ったんです」
それだけです、と男は言った。それだけなのに、昨夜から一睡もできない。目を閉じると、あの目がある。怖いというのとは違う。もっとまずい感じがする。深い井戸を覗き込んで、井戸の底からも覗き返された、あの感じ。
「忘れたいんです。あの目と合ったことを。……お願いします、今夜中に」
岬は無言で鍵を出した。二〇六号室。男はほとんど走るように部屋へ入り、それきり、夕食にも降りてこなかった。
深夜、見回りの途中で、俺は会った。
三階の廊下の突き当たり。燭台型の照明の、光の届く一番端のところに、白いものがうずくまっていた。
初めて会った夜と、同じ姿だった。白いドレス。細い肩。赤い絨毯の上に、雪が一塊だけ残っているみたいに。
「……大丈夫ですか」
規則が頭をよぎった。客の事情は訊かない。でも、この人が客なのかどうか、俺は未だに知らない。台帳で名前を見たこともない。
白い女性は、ゆっくりと顔を上げた。
「ここは、何処ですか」
十か月前と、一言一句同じ問いだった。声の高さも、抑揚のなさも、何もかも。まるで同じ場面を、もう一度再生したみたいに。
「忘却ホテル、と呼ばれています。忘れたい人が泊まりに来る場所だそうです」
前は答えられなかった問いに、今は答えられた。十か月、ここで働いたからだ。
女性は、俺の答えを聞いているのかいないのか、じっと俺の顔を見た。それから、確かめるように、もう一度見た。初めての夜と同じ、二度見だった。
「……あなた」
女性の唇が、問い以外の形に動いた。
そのとき、廊下の照明が一斉に、すっと暗くなった。まばたきほどの一瞬。明るさが戻ったとき、赤い絨毯の突き当たりには、もう誰もいなかった。
ドレスの裾の一枚も、残っていなかった。
翌朝、二〇六号室の男は、憔悴しきった顔で降りてきて、スープを頼んだ。
一口で、男の顔から強張りが解けた。
「……あれ。俺、何を忘れに来たんでしたっけ」
「お客様がお預けになったものは、当ホテルで確かにお預かりしました」
岬の定型の言葉に、男は狐につままれた顔で頷いて、それでも足取りだけは軽く、玄関から出ていった。もう、一度も振り返らなかった。
入れ替わりのように、俺は視界の端に白いものを見た。
玄関脇の廊下の奥。白いドレスの女性が、立っていた。うずくまってはいなかった。まっすぐ立って、男の出ていった扉を見て、それから、俺を見た。
そして、小さく、会釈をした。
初めて見る仕草だった。何百年も前に習った礼儀を、ゆっくり思い出しながらやるような、丁寧で、少しぎこちない会釈だった。
「あの——」
歩み寄ろうとした俺に、女性は静かに首を振った。それから、囁くほどの声で言った。
「あなたは、降りてきた人」
「……降りて?」
「わたくしは、覚えています。あなたが階段を降りてくるのを、見ていました」
どの階段を、とは言わなかった。
女性の姿は、廊下の暗がりへ薄れるように消えて、あとには赤い絨毯だけが残った。
三階の突き当たりの階段は、下へ続いている。客用階段とは、つながっていない。
なら俺は、いつ、どこから——何をしに、降りてきたのだろう。
背中のほうで、岬が台帳を閉じる音がした。いつもより、少しだけ強い音だった。




