第12夜「引換証」
三月の客は、古い紙切れを一枚、両手で持って入ってきた。
「これで、返していただけると聞いて」
小柄な老婦人だった。差し出された紙は、うちの預かり票の客用控えだった。同じ番号の控えがホテルにも残る。客用の一枚は、そのまま引換証になる。ただし、ずいぶん古い。角は丸くなり、折り目は毛羽立ち、財布の中で長い年月を過ごしてきた紙の顔をしていた。
日付は、二十年前の三月。品目の欄には、几帳面な字でこう書かれていた。
——息子の声。
岬は預かり票を受け取って、いつもより長く、それを見た。
「お返しは、できます」
顔を上げて、岬は言った。
「ただ、ひとつだけ。お預かりした記憶は、お預けになった日のままです」
「はい。それを、お願いしているんです」
「……歳を、取っていません」
老婦人は、その言葉の意味を測りかねたように、少しだけ首を傾げた。俺にも、そのときは分からなかった。
「二十年ぶんの月日は、記憶の外側だけを流れています。中身は、預けた朝のまま。傷も、匂いも、鮮度も」
「構いません」
老婦人は、即答した。
「最近ね、いろんなことを忘れるんです。お医者様は、歳のせいだと。……このまま全部薄れていくなら、その前に、一度だけ。返していただきたいんです。あの子の声を」
手続きは、静かだった。
岬が呼び鈴を一度鳴らすと、ボーイが音もなく現れて、預かり票を銀の盆で受け取り、廊下の奥へ——降りる階段のほうへ、消えた。
戻ってきたのは、十分ほど後だった。盆の上には、蓋つきの銀の器がひとつ載っていた。スープ皿より小さい、両手で包めるほどの器だ。
老婦人の部屋、二〇三号室のテーブルに、器は置かれた。
「お開けになった瞬間に、お戻りします」
岬はそう言って、俺を促して部屋を出た。扉が閉まる寸前、俺は見た。老婦人が、器の蓋に手をかけて——その手が、祈るみたいに一度止まるのを。
夜半、二〇三号室から、泣き声が聞こえ始めた。
様子を見に行こうとした俺の袖を、岬が引いた。
「今夜は、そっとしておく」
「でも」
「大丈夫。ああいう泣き方は、危なくない」
岬は廊下の壁に背中を預けて、目を閉じた。俺も、隣に立った。夜間係の仕事が「聞いていること」だけの夜が、たまにある。
泣き声は、朝まで続いた。ただ、泣き声だけではなかった。合間に、老婦人の話し声がした。相槌みたいな間があって、笑い声すら、少し混じった。誰かと長電話をしている人の声に、似ていた。
二十年前の朝の、行ってきます、をずっと再生しているのだと、後で知った。玄関で靴を履く音ごと、預けてあったのだそうだ。
朝、老婦人は瞼を腫らして降りてきた。
顔は、腫れているのに、来たときより柔らかかった。
「お返しします」
彼女はカウンターに、両手を置いた。器はもう、部屋にはない。記憶は今、彼女の中にある。それを、もう一度。
「……取り戻したことを、後悔なさいましたか」
訊かないのが規則だ。でもこれは客の事情ではなく、預かりの手続きだ。そう言い訳して、俺は訊いた。
老婦人は、少し笑った。
「後悔しました。開けて、五分で」
二十年前のあの朝が、匂いごと戻ってきたんです、と彼女は言った。味噌汁の匂い。玄関の土間の冷たさ。行ってきます。閉まる引き戸。それが最後になるなんて、知らないままの、自分の「いってらっしゃい」。
「時間が薄めてくれていたんですねえ。私、二十年かけて、あの朝から遠ざかったつもりでいました。違いました。遠ざかっていたのは、預けていたからでした」
薄めながら持ち歩くには、私はもう、歳を取りすぎました。
「だから、お返しします。……いいえ」
老婦人は、首を振った。
「もう一度、お預けします。返品ではありませんよ。あの子の声は、不良品ではないので」
岬は新しい預かり票を書いた。日付は今日。品目の欄は、二十年前と同じ文字。ただ、備考の欄に、老婦人はこう書き足すことを望んだ。
——一晩、確かに聞きました。
スープは、一口で済んだ。
玄関で、老婦人は腫れた目のまま、不思議そうに自分の頬に触れた。
「あら。……私、泣いたのかしら。なんだか、とてもいい夢を見た気がするんですけど」
覚えていない顔で、彼女は深くお辞儀をして、三月の光の中へ帰っていった。
その日の昼、年度末の台帳整理を言いつかった。
一年分のページをめくって、宿泊の記録を綴じ直していく。インクの薄れた行がいくつもあった。五月の、足音のない女の人。八月の、風鈴の部屋。ああいう客たちの行は、時間をかけて白くなっていく。それはもう、見慣れた。
手が止まったのは、白くなった行ではなかった。
最初から、白い行だった。
四年前の綴りの、一月のページ。前後の行はびっしり埋まっているのに、そこだけ、名前の欄に一度もインクが入っていなかった。書いて消えたのではない。書かれるはずの場所が、初めから空いている。日付を確かめた。一月の、頭。
チェックアウトの欄も、白かった。
四年前の一月に来て、まだ発っていない客が、いる。
「岬さん、これ——」
顔を上げると、岬はもう、こっちを見ていた。カウンターの向こうから、まっすぐに。驚いた顔ではなかった。いつか俺がそのページを開くのを、ずっと待っていた人の顔だった。
岬は静かに歩いてきて、俺の手の下から台帳を引き取り、そのページに——例のごとく、指を一度置いてから——閉じた。
「それは、まだ整理しないページ」
まだ、と彼女は言った。
四年前の、一月の頭。
病院のベッドの上で、俺の記憶が始まった、あの日付と、同じ月だった。




