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13/13

第13夜「不採用」

 四月になった。このホテルに来て、ちょうど一年が経った。

 その日の夕方、玄関の扉が開いて、若い男が入ってきた。就活生みたいなスーツを着て、緊張した顔で、手には一枚のカードを持っていた。

 見覚えのあるカードだった。

 《夜間係、求む。忘れたいことのある方は、不可。》

 「あの、求人を見て来ました!」

 男は勢いよく頭を下げた。二十代の前半だろう。声が大きくて、姿勢が良くて、履歴書の入った封筒を両手で持っていた。一年前の俺より、よほど就職に向いた格好をしていた。

 「面接ですね。こちらへ」

 岬がカウンターから出て、廊下の奥の応接室へ男を案内する。俺は仕事に戻ろうとして——ふと、違和感に気づいた。

 男が、進んでいない。

 岬について歩いているのに、男と応接室の距離が、縮まらない。いや、違う。開いていた。男が三歩進むたび、赤い絨毯が男の足の下で、す、と四歩ぶん、玄関のほうへ流れている。

 男は気づいていない。一生懸命歩いて、少しずつ、入り口へ運ばれていた。

 「岬さん」

 「分かってる」

 岬は立ち止まって、振り返った。男は自分がフロントの前まで戻されていることに、そこで初めて気づいて、目を白黒させた。

 「え? あれ? 俺、今——」

 「応接室は使いません。ここで伺います」

 岬はカウンターに戻って、台帳ではなく、まっさらな面接票を開いた。

 「志望の動機を」

 「はい! 御社の……ええと、当ホテルの求人カードを、駅のベンチで拾いまして。夜勤は得意ですし、体力にも自信があります。それに、その」

 男は言葉を探して、明るく笑った。

 「俺、忘れたいことなんて、何にもないんで! 条件、ぴったりだと思うんです」

 言い終わった瞬間、男の座っていた椅子が、絨毯の上を音もなく三十センチ、玄関のほうへ滑った。

 男は椅子ごと運ばれながら、まだ笑っていた。笑顔のまま、顔色だけが少し悪くなっていった。


 面接は、五分で終わった。

 正確には、五分間で男は三回、椅子ごと玄関へ運ばれ、三回、自分で椅子を引きずって戻ってきた。三回目に戻ってきたとき、男はもう笑っていなかった。

 「……なんで、ですか」

 男は膝の上で拳を握った。

 「なんで、この建物、俺を追い出そうとするんですか。俺、嘘なんて」

 言いかけて、男は黙った。

 長い沈黙だった。廊下の照明が、じ、と小さく鳴った。

 「……ありました」

 男は、封筒を握り潰すみたいに持ち直した。

 「忘れたいこと。……あります。あるから、来たんです。ここで働けば、そういうの、扱ってるうちに、自分のも薄れるんじゃないかって。給料もらいながら、忘れられるんじゃないかって。……すみません。それが本当の、志望動機です」

 岬は面接票を、静かに閉じた。

 「不採用です」

 声は平坦だったが、冷たくはなかった。

 「当ホテルの従業員は、忘れたいことのある方には、務まりません。お客様のお荷物を預かる場所に、自分の荷物は持ち込めないので」

 岬は面接票の代わりに、台帳を開いた。

 「ですが——お客様としてなら、お泊まりいただけます」

 男は、しばらく台帳と岬の顔を見比べていた。それから、封筒を鞄にしまって、背筋を伸ばした。

 「一泊、お願いします」


 男が忘れたかったものを、俺は知らない。訊かないのが規則だからだ。

 ただ、翌朝チェックアウトした男は、来たときの三割増しくらい若く見えた。スープを一口飲んだだけで、そうなった。

 「なんか俺、昨日、面接受けに来たんですよね? 何の面接だったか忘れちゃったんですけど……落ちたのだけ、覚えてて」

 変なの、と男は笑った。今度の笑顔は、椅子ごと運ばれていかない、ちゃんと床に足のついた笑顔だった。

 「でも、不思議と悔しくないんですよね。なんか、身軽で」

 男は一礼して、四月の光の中へ出ていった。絨毯は最後まで、男を運ばなかった。もう、運ぶ必要がなかったのだと思う。


 夜、フロントの明かりを落とす前に、俺はカードを一枚、手に取った。男が置いていった、あの求人カードだ。

 《夜間係、求む。忘れたいことのある方は、不可。》

 一年前、俺はこの条件を「俺ほど向いている人間もいない」と読んだ。忘れたいことどころか、忘れたことしかないのだから、と。

 でも、今日の面接を見て、分かってしまった。

 この建物は、嘘を見抜く。忘れたいことを隠して入ろうとした男を、絨毯ごと押し返した。

 なら、一年前——俺のときは。

 「岬さん。俺の面接のとき、廊下は、俺を運びませんでしたよね」

 台帳を閉じかけていた岬の手が、止まった。

 「ええ」

 「椅子も、滑らなかった」

 「ええ。……あなたのときは、廊下が、まっすぐだった」

 まっすぐだった、と彼女は言った。この建物が、俺を通したのだ。忘れたいことのある方は、不可——その条件に、俺は正しく合格した。

 忘れたいことが、ない人間として。

 それとも……。

 岬は俺のページに指を一度置き、ぱたん、と台帳を閉じた。

 その仕草の意味を、俺はまだ訊けずにいる。

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